
取引先に「今回だけ協力してほしい」と値下げをお願いする――。
ごく普通の価格交渉に見えても、自社が優位な立場にあり、相手が事実上断れない状況なら、下請法や独占禁止法に抵触するおそれがあります。重要なのは、言葉遣いの丁寧さや相手が承諾したという事実だけではありません。
本稿では、元刑事の視点から、何気ない「お願い」が違法な要求に変わる境界線を解説。担当者個人が注意すべきポイントと、企業が不祥事を防ぐために整えるべき仕組みを紹介します。
※本稿は、森雅人(著)、足立直矢(監修)『これだけで、逮捕』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
【危険度レベル】
★★☆☆☆ 逮捕リスク
★★★★☆ 懲戒・損害賠償リスク
★★★★☆ ほぼ確実に会社名公表
Aは、ある会社で外部業者への発注を担当していた。
会社の業績は落ちており、会議のたびに上司から「コストを下げろ」と言われ、Aは頭を抱えていた。そこで、Aは長年取引のある業者に電話をかけ、「厳しいのはわかっています」「今回だけ協力してもらえませんか」と値下げを要求した。その言葉は丁寧だった。
脅したつもりもなかった。だが、相手は断れなかった。その会社にとって、その取引先を失うことは大きな痛手だったからだ。
結局、取引先は値下げに応じ、それをきっかけにその後も同様の要請を続けた。数か月後、同じようにAから値下げの要求を受けた別の取引先からも同様の相談が寄せられ、公正取引委員会が調査に乗り出した。結果、優越的地位を利用した不当な値下げ要求が認定された。会社は下請法違反として勧告を受け、社名公表。Aも社内処分を受けることになった。
【ココがアウト!】
〇下請法(下請代金支払遅延等防止法)違反
親事業者が、その立場を利用して下請事業者へ不当な不利益を与える行為。
〇独占禁止法(優越的地位の濫用)違反
取引上優位な立場を利用し、相手に不利益を押し付ける行為。
取調べをしていると、「そんなつもりじゃなかったんです」という言葉をよく聞きます。この手の問題も同じです。本人は脅したつもりはありません。怒鳴ってもいない。契約を切るとも言っていない。ただ協力をお願いしただけ。
そう考えていたのでしょう。
しかし、人は自分の立場の強さを過小評価しがちです。自分にとっては一件の取引先でも、相手にとっては売上の大半を支える得意先かもしれません。自分にとっては軽い相談でも、相手にとっては断れない依頼かもしれません。
商売では信頼関係が大切だと言われます。私もそう思います。
しかし、信頼関係と力関係は別です。長い付き合いがある。仲がいい。いつも助けてもらっている。それでも立場の差は存在します。
私が経済事犯(企業活動や経済的な取引の過程で発生する犯罪の総称)を担当していて感じたのは、人は権力を持った瞬間に危なくなるのではない、ということです。むしろ、自分が権力を持っていることに気づいていない時のほうが危ない。
下請法も同じ考え方です。法律が見ているのは、「何と言ったか」だけではありません。その言葉を受け取った相手が、実際に断れたのか。そこを見ています。
だから、「お願いしただけです」という説明が通らないことがあります。問題は、お願いだったかどうかではなく、相手に選択肢があったかどうかです。
多くの人は、「値下げ交渉なんて普通のことではないか」と思うかもしれません。
実際、商売の世界での価格交渉は珍しくありません。安く仕入れたい。高く売りたい。そう思うのは、自然なことです。
問題になるのは、交渉そのものではありません。自分の立場を利用して、一方的に条件を押し付けることです。
たとえば、大口の取引先から「今回だけ協力してほしい」と言われたとします。言葉だけ見ればお願いです。しかし、その取引先が売上の大半を占めていたらどうでしょう。断ったら取引を失うかもしれない。そう感じる状況だった時、相手は本当に自由に判断できたと言えるでしょうか。
下請法や独占禁止法が守ろうとしているのは、価格ではありません。取引の公平性です。だから法律は、「何を言ったか」だけではなく、「どんな立場で言ったか」も見ています。
相手が承諾した。契約書にもサインした。それだけで問題がなくなるわけではあり
ません。その承諾が、本当に自由な意思だったのか。そこが問われます。
交渉が成立するためには、双方が対等でなければなりません。その前提が崩れた時、
法律の問題になるのです。
まず意識してほしいのは、自分の立場を正しく理解することです。取引先との関係では、自分が思っている以上に相手へ影響を与えていることがあります。
だから価格交渉をする時は、「自分が何を言ったか」ではなく、「相手がどう受け取るか」を考えることが大切です。
また、交渉の場では、「相手が了承した」だけで安心しないでください。本当に相手に選択肢があったのか。断る余地があったのか。そこまで考える必要があります。
さらに重要なのは、値下げや条件変更を求める時ほど、感覚ではなく根拠を持つことです。原材料価格の変動。市場価格の変化。発注量の増減。なぜその条件が必要なのかを説明できるかどうか、が重要になります。
取引先との関係は、勝ち負けではありません。
一方が我慢し続ける関係は長続きしません。だからこそ、「どこまで下げられるか」ではなく、「双方が納得できるか」を一番に意識するようにしましょう。
下請法違反を防ぐためにまず必要なのは、下請法を法務部だけの仕事にしないことです。なぜなら、実際に取引先とやり取りをするのは「現場」だからです。
営業担当。購買担当。プロジェクト責任者。彼らが下請法を知らなければ、違反は防げません。
そのため会社は、
・値下げ要請
・発注取消
・支払遅延
・無償でのやり直し要求
など、実際に起きやすい事例を継続的に共有する必要があります。
また、取引条件を変更する際は、一人で判断させないことも重要です。一定額以上の値下げ。支払条件の変更。追加作業の依頼。こうした判断に、上長や管理部門が関わる仕組みを作るだけでも、リスクは大きく下がります。
私が刑事時代に見てきた企業の不祥事の多くは、悪意から始まったものではありません。「誰も止めなかった」。ただ、それだけです。
だから会社に必要なのは、完璧な社員ではありません。担当者が迷った時に、「ちょっと待とう」と言える仕組みです。
ルールは現場を縛るためではありません。現場を守るためにあるのです。
更新:09月01日 00:05