2019年03月07日 公開
2022年10月25日 更新
海外との価格競争で劣勢に立たされ、元気をなくしている日本のアパレル製造業。しかし、技術力によって付加価値の高い商品を作ることで、価格競争から抜け出している企業もある。東京・両国に本社がある丸和繊維工業〔株〕も、そうした企業の一つだ。創業者の息子である現社長・深澤隆夫氏に話を聞いた。
――御社の創業者は、深澤社長のお父様ですね。
深澤 そうです。父のあと、叔父が1期2年、社長を務めたので、社長としては私で3代目になります。
創業は1956年3月1日で、もとは肌着を作っていました。ポロシャツなどのアウターに転換したのが昭和40年代半ば頃です。
今は、シャツやスウェット、コートなど、カットソー全般を作っています。大手ブランドのOEMが多いのですが、2011年3月2日から自社ブランド『INDUSTYLE TOKYO』の販売も始めました。
――深澤社長ご自身は、御社に入社される前に丸紅〔株〕に勤めていたということですが。
深澤 織物貿易部で生地の輸出をしていました。サウジアラビアに駐在したこともあります。
――会社を継ぐことは考えていなかった?
深澤 その頃は考えていませんでしたね。
サウジアラビアから東京に転勤して2年くらい経った30歳のときに、父が病気をして、初めて入院したんです。頑健な父が入院したというのはショックでした。それで会社を継ぐことを意識するようになって、当社に入社しました。
最初は、社長付きの部長として、仕入れ先とのネットワーク構築や、財務も含めた工場の管理をしたりしていました。
――当時の御社は、どんな状況だったのですか?
深澤 入社したのが91年で、一番良いときでした。それから年々、バブル崩壊の影響がおよんできて、価格の面でも、生産ロットの面でも厳しくなっていき、業界全体がシュリンクしていきました。
85年のプラザ合意後、急激に円高が進行し、日本の縫製工場が海外に移転し始め、特に90年代に入ってから、その流れが加速しました。私が入社した頃には、ニット製品のうち、日本製のシェアが半分ほどあったのですが、今ではわずか2%台です。この間、カジュアル化が進んで、ニット製品の市場は拡大しているのですが……。
アパレル製造業には、労働集約型で付加価値が低いという問題があります。だから、人件費が低いところに生産拠点が移動していくことになるのです。
――御社も海外に生産拠点を作ったのでしょうか?
深澤 ちょうど私が入社した91年に、インドネシアに合弁で工場を作りました。かなり良い商品を作れるようになったのですが、97年にアジア通貨危機が起こったり、合繊や先染めにうまく対応できなかったりしたため、99年に撤退しました。当時は、フリースのブームなど、合繊の需要が増えてきていたんです。
その後、台湾企業と業務提携して技術指導をしたのですが、技術指導では私たちの思うような商品を作ることができません。そんなときに香港の生地メーカーと知り合って、縫製工場を作りたいので技術指導をしてくれないか、というお話をいただきました。そこで2000年に、合弁で、中国に輸出専門の工場を作ることにしました。
その香港企業の方々はすごく良い方たちだったのですが、考え方の違いもありました。例えば、私たちとしては、工場の現場の人に日本に来てもらって研修を受けてもらいたかったのですが、彼らは「日本に連れて行ったら辞めてしまう」などと反対しました。現場の人たちと心を通わせることが、合弁では難しかったのです。
そこで、5年後の契約更新の際、独資に切り替えました。独資の工場は、2006年に、寧波に作りました。協力工場が多くあって、土地勘があった場所です。
その工場では10年間生産しましたが、2016年に撤退して、今は日本製を中心に作っています。
――海外生産から撤退した理由は?
深澤 人件費が上がったこともありますが、値段を追いかけて商売をしていると、社員を幸せにできないという思いがずっとあったんです。そこで、日本製で高付加価値の商品に集中しようと考えました。
それまでも高付加価値の商品を作っていたつもりではあるんです。でも、中国に工場を持っていると、日本で作ると値段が合わない商品は中国で作ろうと、営業マンが安易に考えてしまう。海外生産から撤退することには、「当社は高付加価値の商品しか扱わない」というメッセージを社内外に発信する目的もありました。
以前は、閑散期には、加工単価の安い仕事を受注してでも工場を稼働させていたのですが、それもやめました。営業マンが給料を得るために、工場の現場の人の給料を犠牲にするようなものだからです。
――海外の企業から技術指導を求められるくらいですから、御社の技術力は高いわけですね。
深澤 高いほうだと思っています。「品質の丸和繊維」ということで、業界の中では昔から名前が通っています。
当社には、着心地の良さを追求するDNAがあるんです。父が肌着を作っていたときも、着心地の良い高級品を作るためには細い糸で編むといいのですが、日本にはそれができる機械がなかったので、腹巻にお金を入れてスイスまで買いに行ったくらいです。1950年代のことです。
更新:11月22日 00:05