THE21 » カルチャー&トレンド » 「水曜どうでしょう」の生みの親・藤村忠寿の素顔

「水曜どうでしょう」には神様がついている――。
※本稿は、嬉野雅道 著『だから僕らは出会わなければならないのです。』(集英社インターナショナル)の内容を一部抜粋・編集したものです。
連載のとき※には、「搾取から一番遠いところ」にいる人として、「藤村さんから漂ってくる自由の風」みたいな視点でこの章を書きましたが、なんでしょう、ちょっと書き方を変えなきゃいかんかな、という気持ちに現在なっております。
※『kotoba』(集英社刊)内の連載「だから僕らは出会わなければならないのです。」
いや、「間違っていた」というわけじゃありません。むしろその逆で、「あの人は、いったい何者なんだろう!?」と怪しんでしまったといいますか。
とにかく、今のところまだ、書けることと書けないことがありますから自分でもこの先をどう書くつもりか分からないのですが。
たとえばです。たしかに昔から「『水曜どうでしょう』には、どうでしょうの神様が付いているな」と、感じてはおりました。そして、その神様の気配はどうでしょう班全員が濃厚に感じてもいたことです。
とくに強く感じたのは「北海道で家、建てます」のロケのときです。
我々が作っていたツリーハウスが、その年の三月に降った遅い大雪の重みに耐えかねて人知れず潰れていたときです。ツリーハウスを建てるという企画なんですから最後は完成して終わりです。でも、それじゃあなんか普通すぎてイマイチだなぁと全員が思ってはいたのです。
だから、かなり粘って長いこと撮影を続けていたのですが、粘ってもさしたる展開は起きることもなく、
(いや、実際には、藤村さんが極寒の赤平ロケの最中に酒に酔い潰れて誰よりも早くテントに倒れ込み早々に寝ていたところを、夜更けに私のカメラとともに大泉洋さんがテント内を訪問すると、藤村さんは寝ぼけたまま上体を起こし、「このスープ、ふつうに飲めちゃう」と寝言を言いだすものですから、私も大泉さんも、「あぁ、この人はまだ夢の中で撮影を続けていたんだな」と知って大泉洋さんなどはこれに大いに感銘を受けるという展開があったのです。しかし、こういうとき、「今とても重大な爆笑の山場を迎えている」とは、人は現場では認識できないものですから)
だから、ただ迷走したままロケの時間ばかりが過ぎるので、そろそろ終わらせなければと思い立ち、大泉くんが次にロケに来る前に一週間ほどかけて完成させちゃえと、三月の遅い時期に我々藤村・鈴井・嬉野の三人は、ねじり鉢巻で突貫工事を敢行する覚悟で現場に出かけたのです。
そしたら、なんと建築中だったツリーハウスは降り積った雪の重みに耐えかねて、バキッと押し潰されていたのです。そうした事態を目の当たりにして我々はあまりのことに度肝を抜かれ、でも、裏腹になぜか気持ちにふわりと浮力がついて気が楽になり、可笑しくって、あたりかまわず爆笑してしまったのです。
「え!潰れてんじゃんツリーハウス」
こんな展開ってある?完成して終わるんじゃなくて、潰れて終わっちゃうんだ?
スゲェ。やっぱり「どうでしょう」の神の采配ってあるんだ。またおもしろくなっちゃったよと、第一発見者の藤村・鈴井・嬉野は、この人智を超えた采配に激しく打ちのめされ、畏怖し、「バラエティーってのはこうだよ」と、ときならず神の声を聴くがごとき体験をしたのです。
でもね。私の今の心境としては。たしかに『水曜どうでしょう』という番組には神様がついている。それはそうだとして。でも、それってひょっとして、つまりその神様ってのは、藤村さん自身ってことなんじゃありません?と、(私は今おかしなことを書いています)にわかにそんな疑念が湧いてきたのです。
たしかに近年、藤村さんは一部の番組ファンの皆様から「かみ」と呼ばれております。「かみ!明日飲みに行きませんか?」みたいに。
まぁ、ある程度、あだ名です。
誘われた「かみ」は、一部の番組ファンのみなさんたちと京急線沿線の居酒屋でしたたか飲んで酩酊し、終電に乗り込んだまでは良かったが、「屛風浦」とかいう日常性のない名前の駅でふと目が覚めたところ、そこは終着駅だったという恐怖体験をされるほどのご乱行もあったと聞き及んでおります。
でも、それも含めて実に楽しそうに「かみ」は人生を送っておられる。
最近では、とにかく料理が作りたくてたまらないのだと東京に新たに部屋を借りて、そこで料理動画を撮ってはYouTubeにあげておられるそうです。
そんな藤村さんの、いや、「かみ」のお部屋のお引っ越しには、これもまた一部ファンの皆様が複数人手伝いにやって来て、力仕事は男どもが、カーテンの裾直しなどは女性部が自発的にやったりしたそうです。
たしかに、「かみ」と呼ばれているのはニックネームかもしれない。
しかし、そこに出来上がっている関係は、すでに氏子と氏神のようでもあり。いや、そもそも、この日の本には八百万の土着の神様が御座しますと聞きますから。ならばその中のお一方がうちの藤村さんということはないかしら、と私は思ってみるのであります。
ある種の土地神様と言いますか、地方神としての氏神様。
そう考えると、あの人の風貌もどことなく恵比寿さまみたいにも見えますし。なんなら昔から釣りがたいそうお好きですしね。恵比寿さまほどメジャーな神様ではないにしても、かなりそれに近い八百万分の一のお一方ではあるまいかと、私は思い始めて妙な胸騒ぎがしておるのです。
あの方は、いったいこの日本列島にどれくらい前からおられる神かは知りませんが、かなり昔からおられるお方なのだろうと思うのです。大昔からこの列島に根を下ろす土地神様であるからこそ、あの方は誰にも縛られない誰にも搾取されない時間の中を楽しそうに進んでおられるのかもしれない。
そういえば日本の田舎には、神様と遊ぶといった、つまり神様を接待し、神様の力を高め、人々の厄を祓ってもらうといった神遊びの神事があったりします。神様と遊び、神様を楽しませ狂喜乱舞させることでエネルギーを放出させ、穢れや災いを祓ってもらう。
まぁこの辺は全部AIに聞いたことですが。しかし、たしかに藤村さんという方もたいへん遊びたがる人なのです。
「水曜どうでしょうキャラバン」で毎年日本中を行脚して多くの番組ファンのみなさんと、連日、各開催地で遊んで早くも10年なのですから。
そして、「好きなことをやるのも楽じゃないんだよ」と全力で楽しみ燃え尽きヘトヘトになられております。
挙句、旅の途中で疲れ果て、朝寝が気持ち良過ぎて、そんなとき、朝から雨だと聞けば、「行きたくないねぇ」と布団の中から子どものような駄々をこねる。
居合わせた私はその言葉を聞いて、瞬間、あまりにも気が抜けちゃって体験したことのない自由を感じてしまったのです。「あぁ、これを自由というのかしら」と。
だって、そろそろ出かけなきゃいけない時間だなぁと思っていたところへ、主役が、「行きたくないねぇ」と言いながら宿の布団から出られないでいるのですから。これには笑う。
そして、それは別に「キャラバン」の毎日が辛いから「行きたくない」のではなく、昨日も楽しみすぎちゃって朝が来てもへばったままで、今、最高にお布団が気持ちいいから、行きたくないというのが理由なわけですから笑っちゃうわけです。
ただ、その状況だけでは笑えないのが現代です。だって会場には主役を待つお客たちがいますから。この人たちがもし厳しい目を向けて待っていれば、緊張感は自ずとそこで醸成されますから笑ってはいられなくなるはず。ひとつ発言を間違えれば炎上という緊張感に縛られてしまうのが現代でもあるということです。
ところがうちの場合は、お客の方でも、「時間になりましたが主役は寝坊して現れません」と現場スタッフからアナウンスを受ければ、「やっぱり藤村さんの場合って、そういうことってあるよねぇ」と、かえってこれを笑いながら受けいれてしまう用意がお客の側に間違いなくある。
これが容易に想像できるから、こっちは宿屋で「行きたくないねぇ」の発言に自由を感じて笑っていられるのです。
更新:09月14日 00:05