
スーパーコンピュータでも難しい複雑な化学反応を、
※本稿は、藤井啓祐 著『教養としての量子コンピュータ』(ダイヤモンド社)の内容を一部抜粋・編集したものです。
量子コンピュータが近い将来、特に大きなインパクトをもたらす分野は、物理の世界で起こる複雑な量子現象の再現だろう。
古典コンピュータでは扱いが難しい複雑な量子現象も、量子コンピュータなら量子力学のルールに従って正確にシミュレーションでき、より速く計算できる。
私たちの身の回りの材料やその電気的な性質はすべて量子力学に従って決まっている。なかでも量子力学特有の現象が、抵抗なく電気が流れる超伝導物質だ。超伝導物質を用いることで、エネルギー損失のない効率的な送電や、強力な電磁石を実現することができる。
超伝導磁石は、リニア中央新幹線でも使われている。
物質を超伝導状態にするためには超低温まで冷やす必要があるが、うまく材料をデザインすることで高温でも超伝導になる物質を生み出せる。量子コンピュータを使って、高温超伝導物質を発見することにつながる。
また、太陽光を電気エネルギーに変換する「太陽電池」の材料開発にも量子コンピュータの活用が期待されている。
量子コンピュータを用いることで、材料の電子構造や特性を高精度で予測し、新しい高効率な太陽電池材料の設計が可能となる。また、生成された電気エネルギーを効率的に蓄積し、必要なときに利用するためには、高性能な二次電池(リチウムイオン電池など)の開発が不可欠だ。
ドイツの自動車メーカーであるフォルクスワーゲン(Volkswagen)とカナダの量子技術企業ザナドゥ社は、量子コンピュータの計算技術を使って、バッテリー材料のシミュレーションを行っている。これは、より安全で軽く、コスト効率の高いバッテリー材料の開発が狙いだ。
他にも、電気を光に変えるLEDや熱や音を電気に変える材料など、量子力学に従ったミクロな世界のシミュレーションによって新たな機能を持つ材料の開発が期待されている。
さらに、視点を宇宙という大きなスケールに向けてみると、光ですら脱出できないほど強い重力を持つブラックホールの理解にも量子力学が欠かせない。
たとえば、ある物体をブラックホールに落としたとき、その物体の情報はどこへ行くのだろうか。
ここでいう「情報」とは、単に何が落ちたのかという話ではない。どんな粒子で構成されていたのか、それぞれの粒子がどの位置にあり、どのように動いていたのかといった、量子力学的な詳細まで含むものである。
量子力学の基本原則では、情報は決して失われないとされている。つまり、どれほど物体が変化したとしても、その変化前の状態の情報はどこかに保存されているはずなのだ。
しかし、ブラックホールはその情報を丸ごと消し去ってしまうかのように見える。この矛盾は「情報消失パラドックス」と呼ばれ、現在に至るまで物理学の未解決問題として議論が続いている。
このようなブラックホール研究の最先端では、私たちが住む世界の時空(時間と空間)は量子もつれの集まりによって作られているという考え方もあり、量子コンピュータを用いてブラックホールを再現する実験が行われている。
これまで実験的な検証が難しいとされていた最先端の物理理論でも、量子コンピュータを用いれば自在にシミュレーションが可能になり、大きな力を発揮すると考えられている。
肉眼で天体観測をしていた時代から、人類が望遠鏡を手にしたことでより遠くの宇宙が見えるようになったのと同じく、量子コンピュータを使うことで、これまで直接観測できなかった物理現象を作り出し、実験できるようになるのだ。
また、量子力学に基づいたシミュレーションの応用範囲は非常に広く、物理学の最先端研究のみにとどまらない。
なぜなら地球上で起こるほとんどすべての現象は、原子や分子を通じた環境とのやり取りや物質の変化、いわゆる化学反応によって成り立っており、そこでは量子力学が欠かせないからである。
これまでもスーパーコンピュータによるシミュレーションにより、複雑な化学反応の仕組みの解明が試みられてきた。しかし、いまだに理論では説明しきれない現象や未解明の部分が多く残されている。量子コンピュータを利用することで、こうしたミクロな世界の動きを量子の視点から正確に捉えられるようになる。
地球が誕生したばかりの頃、大気中には火山活動などによって大量の二酸化炭素(CO₂)が放出され、その濃度は非常に高かった。やがてシアノバクテリアが出現し、光合成によって二酸化炭素を取り込み酸素を放出した結果、約24億年前には大気中の酸素濃度が飛躍的に上昇した。
その後、陸上植物が広範囲に進出し、巨大な緑地帯を作るなかで、二酸化炭素は植物の体内に取り込まれ、有機物として蓄えられていった。
この有機物が何百万年、あるいは何億年もの長い時間をかけて地下に蓄積され、やがて石炭や天然ガスなど現代の化石燃料のもととなった。
しかし、産業革命以降に化石燃料の利用が加速した結果、二酸化炭素が放出されて、大気中の二酸化炭素濃度は急激に上昇し、地球温暖化という深刻な環境問題を招いている。
こうした現状を打開するためには、化石燃料由来の炭素に頼らないエネルギーを確立する必要がある。
そんななか、次世代エネルギーの鍵として注目を集めているのが、地球上に豊富に存在する二つの原子「水素(H)」と「窒素(N)」だ。
水素は、燃焼や燃料電池としてエネルギーを使うときに二酸化炭素を一切出さず、水だけを生み出す、理想的なエネルギー媒体である。
特に、再生可能エネルギーを使い水を電気分解することで得られる「グリーン水素」は、再生可能エネルギーとの相性も良く、地球温暖化を抑制するための脱炭素社会を目指す上で重要な役割を担う。
しかし、水素を作るには多くのエネルギーが必要だ。また水素は非常に軽く拡散しやすいため、運搬や貯蔵が難しいという課題もある。
そこで、水素に二酸化炭素を加えて、私たちが普段生活している環境(常温・常圧)で扱いやすいメタン(CH₄)に変える「メタネーション」という技術が提案されている。
この過程において中心的な役割を果たすのが、少ないエネルギーで化学反応を進めるための補助として用いられる「触媒」である。
自分自身は変化しないものの、他の分子の反応のための舞台として化学反応を助ける触媒は、複雑な量子的な重ね合わせを巧みに利用しており、このシミュレーションには現在のスーパーコンピュータにも手が負えない。
更新:08月31日 00:05