
観測するだけで結果が変わる――。
※本稿は、藤井啓祐 著『教養としての量子コンピュータ』(ダイヤモンド社)の内容を一部抜粋・編集したものです。
私たちの世界はどのような仕組みでできているのだろうか。これは古代文明の時代から現在に至るまで、人類が問い続けてきた普遍的な問いである。
メソポタミアやエジプトでは、天体の動きを観察し、暦を作成し、数学的な法則を見出すことによって、人々は自然の背後にある規則性を探ろうとした。
いまの物理学につながる学問の源流は古代ギリシャまでさかのぼり、世界が「火・水・空気・土」の四つの元素からなるという説や、弦の長さと音の高さの関係、電気の性質など、さまざまな概念が提案された。
なかでもデモクリトス(紀元前460頃―紀元前370頃)は、「あらゆる物質は『原子(アトム)』というそれ以上分割できない最小単位からなる」との着想を示している。
私たちの世界は、大まかにいえば「物質」と「光」の二つによって成り立っている。
物質と一口にいっても、実にさまざまな種類のものが存在する。しかし、どのような物質であれ、細かく分解をしていくと、原子、さらには電子や陽子などの小さな基本粒子から構成されていると理解されてきた。物質に対する考え方は、古代ギリシャの時代からあまり変わっていないのだ。
光についても、太陽光のように目で見えるものから、Wi-Fiに用いられるマイクロ波のように直接目では見えないものまで多様な波長を持つが、どれも空気中を振動する電気と磁気の波として理解されてきた。
こうした物質と光は、一見するとまったく異なる性質を有しているように思える。しかし、ミクロな世界での振る舞いに目を向けると、両者のあいだには驚くほど共通点があることがわかる。
たとえば、光は粒子のようにも振る舞い、逆に電子などの粒子は波のようにも振る舞う。これら「粒子」と「波」の性質を併せ持つものを「量子」という。この二重性を基盤とし、ミクロの世界を統一的に説明する自然界の最も基本的な物理法則が「量子力学」である。
量子力学は20世紀はじめに、原子や電子、そして光といったミクロな世界を説明する物理法則として誕生した。近年では、量子力学に従って振る舞うミクロな対象を「量子」と呼ぶ。
これはまさに、デモクリトス以来の私たち人類の自然界の捉え方をアップデートする考え方である。
粒子は「空間の異なる場所に重ね合わせとして広く分布する」。そして「観測によってはじめてその位置がランダムに定まる」。これらの量子力学的な考え方は、私たちが日常で体感する古典力学的な世界とは大きく異なり、なかなか受け入れ難いだろう。
量子力学を理解する上で「ランダム」という考え方は重要だ。
ランダムとはどのような結果になるのかまったく予測ができないという状況である。さまざまな要素が複雑に影響するため予測が難しいという意味で、サイコロの目や明日の天気もランダムだといえる。
一方で、量子力学における「ランダム」は、原理的に誰にも予測ができない、結果が決まっていないという状況だ。
量子力学的な考え方は、私たちが日常的に目で見ている世界と異なるが、このように考えないと説明がつかない実験がある。それが、電子を用いた二重スリットの実験である。
電子銃(電子を放出する装置)から、スクリーンに向けて電子を一つずつ飛ばす。電子がスクリーンにヒットすると記録されるようにする。ただし、電子銃とスクリーンの間には、壁を設け二本の細いスリットを開けておく。
このとき、スクリーンにはどのような模様が現れるだろうか。
電子は古典的な粒子であれば、電子銃から放出された後、ある一つの軌跡をとってスリットに到達する。左のスリットを通過した場合は左側に、右のスリットの場合は右側に分布することが予想される。
実際、一回、一回の実験結果は一つの粒子として記録される。しかし、この実験を何度も繰り返すとまったく異なる縞模様、干渉パターンが現れる。干渉パターンは、波が二つのスリットを通過して重なり合ったときにできる模様で、通常は水面の波や光で観察される現象だ。
なぜ、一回、一回の実験では一つの粒子として記録される電子が、この実験を繰り返すと波が示す干渉パターンを作り出すのだろうか?
ある電子が、干渉して強め合っているか、弱め合っているかを知るためには二つのスリットを通過したときの距離の差を知る必要がある。一つしかない電子が二つのスリットを通過した場合の距離の差を、どうやって知ることができるのだろうか?
量子力学では、電子は空間の異なる点に重ね合わせ状態として存在する。電子銃から放出された電子は、どの位置に存在するかが不確定になり、「可能性の波」として空間を伝わっていく。
ある可能性は左のスリットを、別の可能性は右のスリットを通過し、その後で自分自身の分身と出会い、干渉する。
つまり、一つしかない電子が、量子力学の世界では重ね合わせ状態として両方のスリットを通過し、その経路の差によって干渉パターンを形成する。そしてスクリーンに到着した時点で重ね合わせは解け、ある場所に一つの電子がランダムに現れる。
このように考えないと電子の二重スリット実験の説明がつかないのだ。
私はいつも大学一年生向けの入門授業でこの量子の二重スリットの実験の説明をしている。このとき、必ず出てくる質問がある。
「電子がどこにいるのか観測し続けると干渉パターンはどのようになる?」といったものだ。
いま、このような疑問を持った読者の方がいたら、あなたは量子力学の研究者に向いているかもしれない。
実は、電子がどこにいるのかを常に観測し続けると干渉パターンは消えてしまう。つまり、電子の位置を時々刻々と追っていく状況では干渉パターンが生まれない。ここに量子力学の本質がある。
対象の情報を得るために観測すると、必ず対象に影響を及ぼしてしまう。重ね合わせがどのような状態かを知るために観測をしてしまうと、その重ね合わせは解けてしまう。
重ね合わせになっていると仮定し、その結果生じる干渉を観測することで、重ね合わせになっていたことを受け入れるしかない。
これは量子力学の直感的な理解を難しくしている点だろう。古典力学の世界では、あなたが観測しようとしまいと月は地球の周りを回っているし、リンゴを落とせば落下する。
しかし、量子力学の世界では、観測することで興味のある対象に影響を与えてしまう。私たちの日常とはまったく違った世界観になっている。
物理学は自然界の現象を観測し、その背景にあるルールを明らかにする営みである。しかし、これまで見てきたように、自然と人間との関係性は古典力学と量子力学とで大きく異なる。この違いを説明するときに私がいつも使っている例がある。
二人の神(自然界)がオセロで遊んでいるとしよう。観測者である私たち人類は、その神々の打つオセロをただただ横から眺めて、そのオセロのルールを解明しようと努めている。
次第に、どういうルールのゲームかは理解できるだろう。黒と黒で白が挟まれるとひっくり返って黒になる。最終的に石が多かったプレイヤーが勝つ。私たちが観測しようとしまいと、淡々とオセロは進んでいく。これが古典力学の世界だ。
一方で、量子力学の世界では、私たち観測者はオセロのプレイヤーとして神相手にオセロを打つことになる。観測者ですらゲームのプレイヤーの一人として世界に取り込まれる。
もちろん、観測者がどこにそのコマを置くかによって、相手の次の手は変わる。観測によってオセロの展開は変化する。
つまり、ミクロな世界は私たちが日常で体感するマクロな古典的世界とは異なり、観測者そのものがゲームのなかに取り込まれた仕組みになっている。
現在の量子コンピュータにつながる「量子物理学」という学問分野の根底には、自分もプレイヤーとなり自然界の物理法則の限界まで攻略し、それを最大限うまく使いこなすという哲学があると私は思っている。
更新:08月27日 00:05