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残業代を上げれば社員は定時で帰る? 「長時間労働は美徳」の価値観を崩すロジック

2026年08月31日 公開

太田肇(同志社大学名誉教授)

残業する社員

働き方改革が進む中でも残業が減らず、有給休暇が使い切られない背景には、単なる制度の遅れだけではない理由が隠されています。日本では長時間労働や休暇の放棄が「組織への忠誠心」として評価され、職場の「承認」を得る武器になっている側面があるためです。労働時間や有休の価値観が逆転するメカニズムについて、太田肇氏の書籍『なぜ「賢い人」が集まってしょうもない意思決定がなされるのか』より解説します。

※本稿は、太田肇著『なぜ「賢い人」が集まってしょうもない意思決定がなされるのか』(日本経済新聞出版)より内容を一部抜粋・編集したものです

 

残業割増率が低い日本で、なぜ「不毛な居残り」が続くのか

近年、いわゆる「ブラック企業」への社会的批判や労働基準法の改正(働き方改革関連法)により、労働時間の短縮は企業にとって喫緊の課題となった。

しかし、統計を精査すれば、正社員の労働時間は劇的には減っておらず、手当の支払われないサービス残業の根絶も遠いのが実情だ。有給休暇の取り残しも、依然として「当たり前」のように行われている。

時間外労働がなかなか減らない背景として、一般的には二つの原因が挙げられる。

一つは、日本的雇用慣行の問題である。日本では閑散期だからといって安易に解雇や雇用調整を行うことが難しいため、企業は閑散期でも余剰が生じない最小限の人数で回し、繁忙期の労働力を時間外労働という調整弁に頼らざるを得ないという構造的な理由だ。

もう一つが、時間外労働に対する割増率の低さである。欧米諸国ではおおむね50%以上の割増が一般的であるのに対し、日本は原則25%増しと比較的低く設定されている。そのため、会社側が人を新たに雇うより、今いる人間に残業させる方が安いと判断し、残業を命じやすいのである。

これに対して、労働組合や一部の有識者は「日本でも割増率を欧米並みに引き上げるべきだ」と主張し、一方の経営側は「企業のコスト負担が増え、倒産を招く」と強く反対している。

しかし、私は「承認」という視点から、まったく異なる予測を立てている。もし割増率を大幅に上げれば、残業は減り、企業の負担はそれほど大きくならないのではないか、ということだ。

その理由は、日本企業の評価システムにある。日本企業では職務の範囲が曖昧で、集団で仕事をこなすスタイルが主流だ。そのため個人のアウトプット(成果)を正確に把握することが難しく、評価者は必然的にインプット、すなわちどれだけ頑張っているかに目を向ける。

ここで重視されるのが、態度や意欲を測る「情意考課」である。この土壌において、残業は単なる労働時間の延長ではなく、「組織に対する忠誠心と貢献意欲のデモンストレーション」としての価値を持つ。割増率が低く、あるいはサービス残業として手当すら出ない過酷な状況でさえ長時間働く姿こそが、「彼(彼女)はこれほど自己犠牲を払っている」という裏の承認を引き出す武器になるのだ。

 

割増率を上げると、「献身」から「小銭稼ぎ」に変わる

ところが、仮に割増率が引き上げられ、残業代が確実に、かつ高額に支給されるようになるとどうなるか。

これまで「会社への献身」として美化されていた居残りは、途端に「残業代を稼ぐための利己的な行動」という色眼鏡で見られるようになる。「あいつは仕事が遅いから、割増された高い残業代をせしめているんだ」「効率的に働かず、会社にコストを押し付けている」。

そんな蔑みの視線、すなわち「非承認」を浴びるようになれば、忠誠心厚く勤勉な社員というブランドを守りたい「承認人」たちは、一転して定時退社を目指すようになるだろう。金銭的報酬が「聖なる献身」を「俗な経済取引」に変えてしまうことで、承認としての価値が消失し、結果として残業が抑制されるはずだ。

有給休暇の取得についても、承認欲求がブレーキをかけている実態がある。日本人の有休取得率は近年向上しているが、それでも6割台(2024年度は66.9%)(厚生労働省「就労条件総合調査」2025年)にとどまり、残りの3割以上は使い切られずに捨てられている。100%消化が当然の欧米とは対照的だ。

欧米では、未取得の休暇を会社が買い取ることが法令や慣行で確立されている国が多く、社員が休暇を残すことは企業にとっても経済的損失だ。一方、日本の行政当局は「休暇の買い取りを義務付けると、金目当てで休まなくなるから取得率がいっそう下がる」という懸念から、買い取りには一貫して消極的な姿勢を崩さない。

しかし、社員のロジックは真逆だ。

社員にとって、余った有休をドブに捨てることは、組織に対して「私は自分の正当な権利を放棄してまで、職場を優先しています」という、一種のプレゼントを意味している。休まないことで、彼らは「忠誠心が厚く、責任感のある社員」という裏の承認を職場から得ようとしているのだ。

もしここに高額な買い取り制度を導入したら、どうなるだろうか。

休暇を残す行為は、会社に「余計な金銭的支出を強いる迷惑な行為」へと意味付けが変わる。プレゼントどころか、会社の財布を直撃するネガティブな行動になるのだ。

周囲の目を気にする「承認人」たちは、会社に迷惑をかけない(=裏の承認を失わない)ために、競うようにして休暇を全消化し始めるだろう。

欧米で有休取得率が高いのは、個人の権利意識が高いからだけではなく、休暇を残すことが組織にとってコスト的に迷惑となるような仕組み(買い取り制度等)が整っており、休むことが組織への配慮と一致しているからにほかならない。

 

プロフィール

太田肇(おおた・はじめ)

同志社大学名誉教授

神戸大学大学院経営学研究科博士前期課程修了。京都大学博士(経済学)。三重大学人文学部助教授、滋賀大学経済学部教授を経て、2004年に同志社大学政策学部教授。専門は組織論、組織社会学。『日本型組織のドミノ崩壊はなぜ始まったか』『「承認欲求」の呪縛』『何もしないほうが得な日本』『同調圧力の正体』など著書多数。愛猫家である。

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