2026年01月09日 公開

湯島聖堂の孔子像
孔子の教えを弟子が書きまとめた書物『論語』。そのなかで門人たちが孔子への不満をグチる場面があるという。それは「質問をしても黙ってばかり」「肝心なことは教えてくれない」「人によって答えが変わる」。企業研修や講演など、社会人教育に携わる浅田すぐる氏は、ここに「人間関係」の本質が見て取れるという。孔子はなぜ、弟子たちが不審に思うような行動をとったのか、『論語』入門書の名著『論語物語』に描かれたストーリーをひもときつつ解説する。
※本稿は、浅田すぐる著『そろそろ論語 物事の本質がわかる14章の旅』(日本実業出版社)より一部抜粋・編集したものです。
『論語』は孔子と弟子たちの人間関係、交友、要するに「わちゃわちゃ」「ぺちゃくちゃ」「ワイガヤ」であふれた書物だ。
とはいえ、ただ漫然と『論語』を読み進めているだけでは、なかなか孔子や弟子たちのワイワイ・ガヤガヤ感が伝わってこない。そこで、おススメしたい名著がある。
それは『論語物語』下村湖人(河出書房新社)だ。
手元にある河出文庫版の帯には、"80年以上読み継がれる「論語入門」の最高峰!泣ける論語。"と書かれている。著者の下村湖人は、同じく不朽の名作である『次郎物語』で知られる児童文学作家・教育者である。
『論語物語』はタイトル通り、『論語』の各章句を下村が独自に組み合わせ、短いストーリー=物語として読めるように再構築したユニークな書物だ。この物語の登場人物が、孔子やその弟子たちであり、魅力的なショート・ストーリーをいくつも読み進めるうちに、どんどん門人たちに親近感を抱くことができるようになっている。
実は『論語』の各章句には脈絡がないため、ただ漫然と前から順番に読んでいっても、まず通読できない。
そこで、バラバラになっている各章句を能動的に取捨選択し、1つの流れ=物語化を施すことで、もっと楽しく『論語』のメッセージに触れられるようにしようというわけだ。
社会人学習の支援者として、『論語物語』を読み終わった後、私は本に向かって自然とお辞儀をしていた。「見事な仕事だ!」と感服・感激しきりだった。『論語』へのハードルを下げ、1人でも多くの読者に『論語』が傍にあるような人生を送ってほしい。そんな願い・想いが伝わいてきて、大いに感動した。こんな読書体験は、なかなかできるものではない。
そんな『論語物語』から1つだけ、「人間関係」の本質を浮かび上がらせたショート・ストーリーを紹介したい。これから紹介する物語は、次の章句をベースにしたものだ。まずは『論語』の岩波文庫版を引用していく。
[出典]第04「里仁(りじん)」篇・第15章句
[書き下し文]
子の曰(のたま)わく、参(しん)よ、吾が道は一以(いつもっ)てこれを貫く。
曾子(そうし)の曰(い)わく、唯(い)。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂(い)いぞや。曾子の曰わく、夫子の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。
[現代語訳]
先生がいわれた、「参よ、わが道は一つのことで貫かれている。」曾子は「はい。」といった。先生が出てゆかれると、門人がたずねた、「どういう意味でしょうか。」曾子はいった、「先生の道は忠恕のまごころだけです。」
この章句をヒトコトでまとめれば、「孔子はただ1つ、忠恕を貫いている」という意味だが、これはいったいどういうことなのか。
結論を急がず、ここからは『論語物語』のストーリーを紹介していきたい。「一以て貫く」というタイトルなのだが、短いとは言え15ページ程度あるので、さすがにすべてを引用することはできない。ぜひ実際に手に取って、フルバージョンや他の物語にも触れてみてほしい。
まずは冒頭、いきなり驚くような言葉からこの物語はスタートする。
ーー「先生も随分年をとられたな。」(中略)「じゃ、たしかに70だ。さすがにこの一二(いちに)年はめっきりお弱りのようだね。」ーー
この不敬極まりない話者たちは、孔子の門人だ。20代の若手たちが10人ほど集まって、雑談している場面が描かれている。その中で主役的な役回りをするのが、さきほど引用した章句に登場する弟子・曾子だ。
ただ、物語では諱を用いて曾参(そうしん)となっているので、その点だけ注意して読み進めていってほしい。
ガヤガヤ話している若手たちの不満を、かいつまんでまとめておく。彼らが抱く孔子への疑問は、「1.質問をしても黙ってばかり」「2.肝心なことは教えてくれない」「3.何より、同じような問いかけをしているのに、人によって答えが変わる」の3点に集約される。
その後も、まるで居酒屋で若手社員が上司のグチを言っているようなノリで、弟子たちの雑談が続いていく。そして、「もうこれは1回、本人に直接聞いてみるしかないんじゃないか!」という話でまとまる。いかにもありがちな展開だ。
では、こうした門人たちの不満に、孔子は何と答えたか。
まずは、「1.質問をしても黙ってばかり」と「2.肝心なことは教えてくれない」についての答えを、『論語物語』から引用する。
ーー全体君等はわしに何か秘伝でもあると思っているのか。わしの進む道には秘伝はない。わしは四六時中の生活に道を現わして行きたいと思っている。君等がわしに学ぼうとするなら、わしの生活を見ればいい。言葉は道ではない。わしが口で言わないからといって、何も君等に隠してはいないのじゃ。孔丘という人間は、そんな人間だと思ってくれ。ーー
要するに、「言葉にしなくとも、見ればわかる」「見よう見まねで学び取れ」「それでもどうしてもわからない、できないという段階まできたら、その時はちゃんとヒントを出すから」ということだ。
この孔子の発言にはベースとなっている『論語』の章句がある。
[出典]第07「述而」篇・第23章句
[書き下し文]
子の曰(のたま)わく、二三子(にさんし)、我れを以て隠せりと為すか。吾れは爾(なんじ)に隠すこと無し。吾れ行なうとして二三子と与(とも)にせざる者なし。是れ丘(きゅう)なり。
[現代語訳]
先生がいわれた、「諸君はわたくしが隠しごとをしていると思うか。わたしは隠しだてなどはしない。わたしはどんなことでも諸君といっしょにしないことはない。それが丘(このわたくし)なのだ。」
岩波文庫版の現代語訳は、「諸君といっしょにしないことはない」という表現になっている。
『論語物語』の「言葉にしなくとも、孔子自身が行動している姿を見ればわかる」という解釈に触れていないと、なかなか心に響かせることは難しいのではないだろうか。
さて、このショート・ストーリーのクライマックスでついに、「3.何より、同じような問いかけをしているのに、人によって答えが変わる」についての、孔子の考えが明かされる。
次の部分だ。
ーー孔子がとうとうやって来た。
「えらい賑やかなようじゃのう。」孔子はそう云って、礼儀正しく彼を迎えているみんなの前を通って、正面の席についた。(中略)「曾参、わしの道はただ一つのもので貫いているのじゃ。」(中略)「さようでございます。」すると孔子は、すっと立上った。そしてあっけにとられているみんなを残して、そのまましずしずと、室を出てしまった。ーー
当然、若手の門人たちは曾子に詰め寄る。「人によって答えが変わるのに、1つのことを貫いているとはどういうことなのか」と。
ーー先生の道は、誠をつくして人の心を推しはかってやること以外にはないのだ。ーー
このセリフが、先に引用した章句の「曾子の曰わく、夫子の道は忠恕のみ。」に対応している部分だ。忠恕という言葉は「誠」や「まごころ」と訳されることが多いが、『論語物語』によれば、その本質は「相手の心を推しはかること」にある。
目の前の他者が何を感じ、考えているかを一所懸命に洞察し、自分の考えでも、世間的に無難な答えでもなく、どこまでも「相手にとって必要な応答」を繰り出していく。
孔子の受け答えが関わる人によってコロコロ変わってしまうのは当然であり、その一方で「忠恕を貫く」という点では一貫もしている。これが、『論語』を通じて学べる人間関係や社交、コミュニケーションに関する極意だ。
以上、紹介しきれなかったものも含めると、このショート・ストーリーだけで、『論語』に収められた5つの章句について認識を深めることができる。
しかも、5つの章句の出所はそれぞれ、「里仁」篇、「先進(せんしん)」篇、「学而(がくじ)」篇、「述而(じゅつじ)」篇という具合にバラバラだ。独力でこれらのメッセージを横断的に理解していくのは極めて難しい。『論語物語』という書物自体が、下村による「能動的な」読み解きの賜物なのだ。
更新:01月11日 00:05