
思想家、教育論者、フランス文学者、武道家……多方面で活躍し続ける内田樹氏。一見すると経営学や資本主義に距離を置く思想家でありながら、経営学が「見失いつつあるもの」を最も鋭く見つめている人――岩尾俊兵氏は対談を通じて、そう確信したといいます。
それは一体何なのか。各界のプロフェッショナル7人との対話から「経営する力」の本質に迫った岩尾氏の著書『武器としての経営思考』より、内田氏との対談の一部を紹介します。
※本稿は、岩尾俊兵著『武器としての経営思考』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです
【岩尾】内田先生のお話を伺って思い出されるのが、三島由紀夫が自決前に記した、「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」の次の一節です。
「此(こ)のまま行ったら日本はなくなって、其(そ)の代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」
私はかつて文学少年で、三島由紀夫の小説はすべて読みました。三島が最期に危惧(きぐ)していたのは、まさにかつてこの国がもっていた「強み」、すなわち道義や美意識、精神的な支柱が、戦後のアメリカニズムや経済合理主義の浸透とともに失われていくことだったのではないでしょうか。そして、その危機を乗り越える拠り所として、最後に希望を託したのが「天皇制」だった。
【内田】おっしゃるとおりです。三島が「天皇制」に求めていたのは、歴史的条件によって揺らぐことのない「道義性と美」だったと思います。
三島が学習院の生徒だったころ、昭和天皇が行幸したことがありました。儀式のあいだ、白馬にまたがって三時間ほど微動だにしない天皇の姿を見て、三島は強い感動を覚えたそうです。
疲れや不快感が表情に表れるはずなのに、彫像のように動かない。この人は人間の生理的反応や生物的な弱さを意志の力で抑え込んでいる。三島を感動させたのはこの超人的な自制心でした。
この例からわかるように、道義性とは「やせ我慢」のことです。人の上に立つ者は、自分の情動や欲望、私利私欲を抑え、おのれに負託された公的使命を演じ切らなければならない。そのためにも、死力を尽くさなければなりません。その覚悟のうちに三島は天皇の道義性を見たのだと思います。
【岩尾】私がお伝えしたかったのも、まさに人の上に立つ経営者に求められる道義性、モラルです。内田先生の言葉を借りれば「やせ我慢」ということです。天皇陛下は資本主義社会のなかで、唯一、私有財産から超越した存在です。
私は現在、経営学者と二足の草鞋を履き、上場企業の社長として会社経営に取り組んでいます。自分が何をすべきかは明確で、端的にいえば「道徳を体現した経営者になる」ことです。
たとえば経営者になれば、しばしば友人や知人から「一緒に事業をやりましょう」などの申し出を受けます。土下座(どげざ)に近いことをされることもあります。
しかし経営者は、私情を抜きにして、誰が見ても公明正大に見える金の使い方をしなければならない。友人の誘いを断るのは一見、単純なことのように感じますが、毎日毎日これに類したことが起こるので、公明正大な意思決定にはやはり相当な「やせ我慢」が必要なのです。
日本ではマネジメントの専門知が求められないうえ、精神的なやせ我慢ができる経営者も多くない。むしろ自分の欲望のままに他者を傷つける、道徳が崩壊した経営者が増えているような気がしてなりません。
つまるところ、国も経営も、最後は「道徳」に行きつくのです。多様な個人が一つの共同体となるためには、リーダーが多少なりともやせ我慢をして、公的な役割に徹する姿勢を見せなければならない。
【内田】「やせ我慢」とは「公共への気遣いを私利私欲よりも優先させること」ですが、それだけの自制心をもつ人は決して多くはありません。誰だって本音では自分がかわいい。
でも、その自然な感情を抑制して、「きれいごと」に身体を張る人が集団には一定数必要です。別に全員に「やせ我慢しろ」と命じる必要はありません。公益を私益に優先させられる人なんてそんなにたくさんはいませんし、たくさんいる必要もない。器の大きい人が何人かいればいい。でも、その「やせ我慢」ができる人だけが公権力を行使し、公共財を分配する要路に立っていなければならない。
いまの日本のシステムはそうなっていません。権力をもっている人たちは、単なる「権力をもった私人」であって、「公人」と呼べるほどの器の人はもうほとんどいなくなりました。
【内田】「やせ我慢する公人」のほかに、もう一つ共同体を構築するうえで重要なものがあります。それは実現困難な「遠い目標」です。
何光年も遠いシリウスを目標に進む者は、周りを見て「俺はあいつより10メートル先を行っている」とか「区間記録でいちばん速かった」などと思いません。目標が遠いときには相対的な優劣は意識にさえのぼらない。相対的な優劣が気になるのは目標がすぐ目の前にある場合だけです。
大きな目標をもつ人間は、他人と自分を比較してその優劣や強弱を気にしない。現代の日本人が相対的な優劣ばかり気にするのは、要するに「目標が目の前のもの」だけだからです。
共同体を安定的に運営するうえで、メンバー同士が相対的な優劣を競うことに意味はありません。ですから、武道では「天下無敵」を目標に掲げる。どんな武道家も「天下無敵」の境位には達せません。でも、あえてそれをめざす。全員が同じ目標に向かって歩む「道友」になる。勝敗・優劣・巧拙を論じない。
それは企業組織でも変わらないと思います。「幸福な社会を実現する」といった遠い目標を本気で掲げる企業内では、勝ち負けや優劣は論じられないはずです。
武道では「勝負を争わず」ということが最初に教えられます。敗(ま)けると「敗けに居着く」し、勝てば「勝ちに居着く」。敗けると、そのトラウマ的経験に居着いて、次の一歩を踏み出せなくなる。勝つとそれが成功体験になり、手離せなくなる。結果、同じ「勝ちパターン」を繰り返すことになる。しかし、修行とは連続的な自己刷新のことです。
生き物の本性は変化することです。「居着く」というのは変化を止めて、ある時点での自分に釘付けになることですが、われわれはこれを「我執(がしゅう)」と呼んで嫌います。武道修行の目的は「我執を去って、自在を得る」ことです。
【岩尾】経営学者のピーター・ドラッカーも似たことを述べています。「経営の本質とは人の悪いところではなく、良いところを見ることだ」と。しかしながら、多くの組織は他者の悪い面にのみ注目し、減点方式で評価を進めています。誰かの短所を別の誰かの長所で補い合う「加点方式」の発想が必要でしょう。
更新:10月09日 00:05