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「弁当がない日も多かった」日高屋創業者の原点にあった極貧生活

神田正(ハイデイ日高会長)、中村芳平(外食ジャーナリスト)

「日高屋」

超有名外食チェーン・日高屋の創業者である神田正氏の生い立ちは、貧乏を極めたものだったという。必死に働く母の姿と空腹の苦い記憶が、後の人生につながっている。当時の生活を振り返ってもらった。

※本稿は、神田 正 著、中村芳平 構成『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(日本実業出版社)より内容を一部抜粋・編集したものです。

 

神田家の食事情「弁当がない日も多かった」

母・なかは高萩村に移住してから霞ヶ関カンツリー倶楽部でキャディの仕事を始めたが、それは神田が小学2年生になる頃のことだった。神田家の大黒柱として、なかは、寝る間も惜しんで働いていたのだ。

朝は誰よりも早く起きて、身支度をすませ朝ごはんの準備に取りかかる。この頃は小学校に通っていたのは神田だけ。戦後の食糧難の時代で、「弁当がない日も多かった」という。

「食事はサツマイモが中心でした。ご飯は麦7割、米3割の割合、炊きあがると麦飯が上に浮かんできて、白米が下に沈みます。私は何度も、その釜の底をしゃもじで掘り起こして、こっそり白米を食べましたが、そのたびに親父にはものすごく怒られたものです。

お米を食い延ばすために麦の代わりに、サツマイモやカボチャを入れて雑炊にしました。小中学校とも弁当はたまに持っていくだけ、おかずは梅干し1個。普通は日の丸弁当といいますが、私の弁当は麦飯7割なので黒っぽくて、日の丸弁当というわけにはいきませんでした。

みんなに見られるのが嫌で、弁当箱の蓋で中身を隠すようにして食べました。弁当を持っていけない日は、みんなの昼食が終わるまで、校庭で腹を減らしながらボールを蹴ったりして、時間をやり過ごしたものです」(神田)

なかは、自転車は苦手で霞ヶ関カンツリー倶楽部へは家から25分、歩いて通った。

朝8時ぐらいには家を出て2キロの道を歩いて、8時30分にはゴルフ場に着き、キャディの制服に着替え、9時スタートの10分前にはその日回るお客たちと顔合わせし、1ホールからスタートする。

手引きカートなどがまだ出回らない戦後の状況下、180センチメートル以上ある大柄な米軍人が持ってくる17キロ前後もある大きなゴルフバッグを、小柄ななかが背負って、1ラウンド18ホールを4~5時間かけて回るのだ。

1日1万歩~2万歩近く歩くので、1ラウンド終われば普通ならクタクタになる。

だが、なかは、そんな疲れた素振りを一つも見せず、キャディの仕事が終わると、また25分かけて歩いて帰った。

なかは、お客の米軍人からもらったチョコレートや菓子を、食べずにそっくり持ち帰って来て子供たちに食べさせた。だから子供たちは、なかがゴルフ場から帰って来るのを見つけると、全員で迎えに走った。

 

働き続ける母の後ろ姿

なかは、午後3時~4時前後に帰宅すると、家の掃除や洗濯に精を出した。といっても電気掃除機も電気洗濯機もない時代、洗濯板で四角い洗濯石鹸を使って、子供たちのズボンや下着、ワイシャツなどをゴシゴシ洗うのだから並大抵のことではなかった。

それから夕飯の支度をすませて、小商いではあったが魚の行商に出た。魚屋からサンマの干物や、アジの干物、小魚などを仕入れて、カゴに担いで近所の農家に売りに行った。

こういう時、役に立つのがキャディ仲間とその情報だった。農家の奥さんたちが忙しくて、買い物に行けない時などに役に立つような小商いではあったが、いくばくかの現金を稼ぐと共に、見知らぬ土地で友だちの輪を広げていったのである。

なかは、明るくて社交的で、話題も豊富で、農家の主婦たちの人気者だった。

そしてなかは、帰宅するとすぐに支度しておいた夕飯を、4人の子供たちに食べさせた。

神田の貧乏暮らしの中にも、こんな思い出がある。小学4年生の頃の、雪の積もった日の出来事だ。

「当時、外に出る時は藁草履か、下駄でした。ゴム長靴は、高価で買うお金がなかったからです。高萩村は内陸部で、昔は雪がよく降り積もったものです。

たまたま大雪の降った日に、下駄に足袋をはいて30分かけて登校しました。学校に着いた時は、足袋はぐしょぬれで足の指の感覚が全くありません。教室のストーブに直行し、足袋を脱いで水を絞って乾かします。足をストーブにくっつくくらいに近づけて温めました。

やがて手や足が温まり指の感覚が戻ると、今度は下駄の鼻緒が当たって擦り切れていた指の付け根がジンジンとしてきて、飛び上がるような痛さでした。授業どころではなかったですね。

そんな体験を経て、母にゴム長靴を買ってもらったのですが、初めて雪道を歩いた時、うれしくて、うれしくてどこまでも歩いた覚えがあります」(神田)

神田の母・なかは、休むことなくただひたすらに子供たち4人を食べさせるため、育てるために寝る間も惜しんで働いた。ドラム缶の仕舞湯に入って疲れを癒すくらいが、唯一の息抜きだった。

なかは、子供たちが寝静まった後、台所に近い場所で明かりを落として、針仕事に精を出した。新しい服を買うお金がなかったので、学童服や手縫いの着物など、破れがあると何度も繕って着せていたからだ。

なかが布団に入って寝るのはいつも夜も深まった遅い時間だった。そして、子供たちがまだ寝ている間に起きて朝早くから働いた。

「母は夜は家族の誰よりも遅く寝て、朝は誰よりも早く起きて台所で大根をトントンと切ってみそ汁を作っていました。いったいいつ寝て、いつ起きているのか、不思議に思ったものです。とにかく母はゴルフ場への行き帰りも歩き、ゴルフ場でも1ラウンド18ホール歩き、帰宅してからも魚の行商で歩きました。

土・日の稼ぎ時は2ラウンド、36ホール回っていたので、ゴルフ場と家を往復する距離も含めると3万歩以上歩いていたのではないでしょうか。『頑張れば、なんとかなる』『頑張れば、大丈夫』と、家の掃除や洗濯、食事の支度など、人間の限界を超えるほどの勢いで働き詰めに働いていました。『これだけ苦労して働けばできないことはない。不可能はない』ということを、子供たちに働く後ろ姿で教えたのだと思います。

母の後ろ姿を見ていて、私は人生の厳しさや生き方、考え方を自然と教えられました。

それは私の心の奥深くに刷り込まれ、意識せずとも人生観や価値観に影響を与えてきたと思います。

私は、『貧乏だけは絶対嫌だ。社会に出たら俺がなんとかする!負けてたまるか』と、反骨精神を燃やしたものです」(神田)

プロフィール

神田正(かんだ・ただし)

ハイデイ日高会長

1941年埼玉県日高市生まれ。中学を卒業して職を転々としたのち、’65年友人のラーメン店で働き始める。’73年大宮でおよそ5坪のラーメン店「来々軒」をオープン。低価格のラーメンを主力とする「日高屋」で業績を上げる。’78年有限会社日高商事を設立、代表取締役に就任。’93年北区赤羽に出店し都内進出。’98年株式会社ハイデイ日高に商号変更。2005年東京証券取引所二部上場、’06年東京証券取引所一部に指定。2002年から「日高屋」を展開し、関東1都6県等に480店超(日高屋以外を含む)を展開する企業へと成長させた。

中村芳平(なかむら・よしへい)

外食ジャーナリスト

1947年、群馬県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。流通業界、編集プロダクション勤務、『週刊サンケイ』の契約記者などを経てフリーに。『日刊ゲンダイ』、『月刊リベラルタイム』などに外食モノを執筆している。著書に『居酒屋チェーン戦国史』(イースト・プレス)、『キリンビールの大逆襲:麒麟淡麗〈生〉が市場を変えた!』(日刊工業新聞社)、『笑ってまかせなはれ グルメ杵屋社長椋本彦之の「人作り」奮闘物語』(日経BP社)、『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(構成・日本実業出版社)などがある。

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