
定年を迎え、改めて向き合うべきなのは夫婦関係だ。毎日顔を突き合わせることで妻がストレスを抱え、熟年離婚――という末路は他人事ではない。では、どうすれば定年後も関係を良好に保つことができるのか。元外務省主任分析官で、作家、評論家として活躍する佐藤優氏は、「互いが一定の距離を保てる時間と空間を確保すべき」と説く。はたしてその方法とは......。
※本稿は、佐藤優著『定年後の日本人は世界一の楽園を生きる』(飛鳥新社)より一部抜粋・編集したものです。
定年後も良好な夫婦関係を保つためには、家庭から離れた自分だけの時間と空間を確保することがポイントとなる。いわば「隠れ家」を作るのだ。
経済的に許されるのであれば、自宅の近くにワンルームマンションを借りることを勧めたい。もちろんパートナーの同意を得たうえでだが、家以外に自分の場所を確保するわけだ。
そして昼間は、そこで読書をしたり、趣味に関することをしたりする。これは、子どものころに押し入れで自分だけの世界を作ったのと同じようなものだ。定年後の隠れ家は、子どものころの「秘密基地」だと言える。
そうして夕食時には、必ず自宅に帰って家族と一緒に食事を摂る。しっかりコミュニケーションも取る。
これは、言い換えれば、ビジネスパーソンとして働いていたころと同じような生活サイクルを擬似的に作る、ということでもある。
金銭的なことを勘案すると、それは不可能だ、と思う人がいるかもしれない。しかし、もう少し頑張ってワンルームマンションを探してほしい。築年数が経ったマンションなら、意外なほど安く借りることもできる。都心に住む人であるならば、電車で30分くらい離れた場所で探してもいい。家賃がグッと安くなる地域は必ずある。
たとえば東京都心、皇居にも近い四ツ谷駅から徒歩数分の部屋でも、学生用のマンションならば、4万円台で見つけることができた。コロナ禍のころだった。
月に数万円を遣い、それで夫婦の関係がうまくいくのであれば、検討する価値はあるだろう。男性の場合、「浮気の疑いをかけられる」と尻込みする人もいるだろうが、妻に合鍵を渡せばいい。そうすれば、いつでも部屋に来られるからだ。
会社勤めを続けてきた定年後の人たちには、こうしたことが特に重要になる。というのも、自営業の夫婦は、始めから仕事も生活も一緒なので、顔を突き合わせていることが習慣化されてきた。夫婦が協力し合って仕事や生活をするスタイルに慣れている人は、あえて「隠れ家」を作る必要などないだろう。
ところが会社に夫を送り出したあとに1人の時間を送ってきた専業主婦の場合は、自分の生活パターンが崩壊してしまうのだ。当然、ストレスを感じる人も多いだろう。やはり数十年も続けてきた生活パターンによって、意識も行動も完成型に近づいている。それを一朝一夕で崩すことはできない。
であれば、無理して夫婦がずっと一緒にいるよりも、お互いが自分の時間と空間を確保することこそが、定年後の夫婦関係を良好なものとするだろう。
2020年にソニー損保が20歳から49歳の結婚している男女を対象に行った調査では、コロナ禍での「夫婦の距離感」についての設問に、夫は「一緒にいたい」と答えた人が56.2%と過半数だったのに対し、逆に妻は「一定時間は離れていたい」と答えた人が53.0%で過半数に......夫と妻のあいだで意識の差が見られた。家事の負担が妻にかかることが多く、夫と一緒にいると妻の家庭内の仕事が増えることが関係していると考えられる。
これまで夫は、日中は家を留守にしており、その間、妻は誰のことも気にせず自由な時間を享受してきた。それを前提にして、夫婦関係も家庭も成り立っていたという現実がある。それがコロナ禍で、図らずも全世代の夫婦の問題として表面化した。
定年後の夫婦にとっては、これから顔を突き合わせて生活していくためには、新しい関係を築いていく必要があるのだ。
これは夫にとっても同じことだろう。妻の目を離れ、気を抜いて過ごす時間が、やはり必要となるはず。定年後に突然、妻との距離を詰めても、相手が引いてしまうかもしれない。それでは当然、長続きはしないだろう。
厚生労働省の調査によると、離婚件数は、2002年の28万9836件をピークに減少し、2023年は18万3808件となっている。ところがこれを同居期間別に見ると、20年未満の夫婦の離婚件数がほぼ横ばいであるのに対し、20年以上の熟年夫婦の離婚件数は、徐々に増加している。2023年には4万件に迫り、全体の5分の1程度にまで増えているのだ。
夫も妻も互いの目から離れる時間と空間を確保する──これが定年後の人たちの夫婦円満の秘訣。もちろん日常的なコミュニケーションは必要だが、同時に適切な距離感も必要となるのだ。
人間関係は実に面倒だ。最近では、小学校から職場まで、時には老人ホームにおいてまで、コミュニケーション力が要求される。このコミュニケーション力を言い換えると、人間関係を巧みに処理する能力だと定義できるだろう。
たとえば、かつて学校で成績優秀な生徒、あるいは運動能力に長けた生徒は、スクールカーストの上位に位置していた。ゆえに、いじめの対象になることはなかった。
しかし現在では、スクールカーストを決める際に、そのコミュニケーション力が大きな要素になっている。成績が良くスポーツが得意な生徒であっても、コミュニケーション力が低いと、スクールカーストの下位に位置づけられてしまう......すると、いじめの対象になる。
そんな人間関係に疲れたとき、どうすれば良いのか?人間には危機から逃れようとする本能が備わっている。こうした人間関係に疲れたとき、一人になって自己崩壊を防ごうとするのが人間の本能なのだ。
そして資本主義社会では、人々に需要があれば、必ずそれに対応した商品が生まれる。たとえば、孤独になるための空間を与えてくれる商品──簡易防音室「だんぼっち」が売れているのが最たる例だ。
この商品は段ボール製で、ベーシックなタイプは半畳ほどの広さ。値段は8万3500円(税込み:2025年6月現在)で、それなりに値が張る。しかし、内部で立ち上がったり、両手を広げようとしたりすれば、壁にぶつかるほどの大きさしかない。それでも購入者がたくさんいるのだ。
もともと、この商品の使途は、ネットに投稿する動画などの撮影ルームとして想定されていた。しかし実際には、「一人でこもる」「集中して本を読む」といったニーズも多かったという。
そして、20代の男性を中心に約2000台が売れた(2016年1月5日付「朝日新聞デジタル」)と報じられたが、「だんぼっち」のオフィシャルショップは、2025年7月現在、累計販売台数は6000台を突破したとしている。
人間関係に疲れ、打開する術が見つけられないとき、この商品のなかで一人になってみる......すると自分の体の奥底から、力が湧き出してくるかもしれない。もちろん、本当に人間関係に疲れ切ってしまった人は、迷わずに精神科医の診療を受けるべきなのだが。
ちなみに私は、初対面の人に会った際に、「この人と付き合うと面倒な人間関係に巻き込まれそうだ」などということを、直観的に感じる。そういうときには、相手に近寄る隙を与えないようにしている。
というのも、誰とでも良好な人間関係を維持しようとすると疲れ切ってしまうので、作家として優れた作品が書けないからだ。自分のことを気難しい人物だと思われたとしても、それで良しとしている。
ちなみにドイツの哲学者、アルトゥール・ショーペンハウアーは、「孤独は優れた精神の持ち主の運命である」と言った。「だんぼっち」は、孤独になるための優れたツールだと言える。
更新:11月28日 00:05