2017年07月27日 公開
2017年08月16日 更新
――孤軍奮闘の中、モチベーションはどこにあったのですか。
柴田 事業的にも環境的にも大変だったのは間違いないですが、私にとってこの期間、働きに働いたことは、最高に面白い経験でもあったのです。商社時代には、既存顧客とのトレードの運用業務という安定的な仕事をしていたので、NP初期時代は「潰れるかも」という恐怖と隣り合わせだったとはいえ、「これが仕事か」という実感を初めて得られてもいました。
時間のあり余っていた商社時代に勉強していたアメリカのビジネスモデルや、他部署に顔を出しては眺めていたプロジェクトの回し方など、「いつか自分でやれたらな」と思いながらインプットしていたものを実行できるのが面白く、没頭しました。やったことがそのままかたちになる手応えはたまりませんでしたし、それを数か月続けたら会社が潰れる心配もなくなって、「自分は社会に通用するんだ」という手ごたえを初めて感じることができたのです。
――反発心でいっぱいの社員に動いてもらうのは大変ではなかったですか?
柴田 それが、あまり動いてもらう必要はなかったのです。15人くらい社員がいたものの、事業と呼べるほどの事業はありませんでしたし、後払い決済については本当にゼロからのスタートだったので、私1人が動けばなんとかなってしまったのです。仕事自体は自分1人で起業してやっているようなものでした。
――職場環境としては大変厳しかったと思いますが、2004年に社長に就任されました。もう辞めようと思わなかったのですか?
柴田 2001年の出向から3年が経ち、後払い決済のシステム構築ができて事業としての目処が立ちました。しかし、組織としては相変わらず非常にしんどいものがあり、事業が波に乗ったところで私は雇われ社長だったのでうまみもありません。NPの立て直しを経て30歳になり、周囲から「出資するから起業してみないか」というお声もかけていただきましたし、正直、心が揺れないではありませんでした。
しかし同時に、その頃にはもう、自分に協力してくれたお客様や、口説いてNPに来てくれたCTO、出資してくれた人々など、私やNPを支援し、助けてくださった人たちがいました。その人たちへの責任や感謝を無視して投げ出すことはできない、という結論に至ったのです。一緒に出向した先輩は財務畑の人で、私以外に社長をやる人もいませんでした。
そうして社長を引き受けましたが、自分の時間はまったくなく、組織は変わらず難しい状態で、07年頃までは、社長をやりながらも精神的には辛かったですね。
――今では、柴田社長はNPという会社を深く愛されているのが伝わってくるのですが、辛かった社長時代にどんな変化が起きたのでしょうか?
柴田 変化としては、まず2008年頃、黒字化したくらいのタイミングで、未来の事業ビジョンが完全に見えたことが挙げられます。先に述べたとおり、私は2001年の時点で既に会員制の後払いサービスという夢を描いていました。今年6月にリリースした会員制カードレス後払い決済サービス「atone」の骨子は、当時からできていたのです。「ここまでやれたら」という想いをずっと持ちながら、それ以前の段階の「後払い」が非常に大きなハードルで、長らく手こずっていたわけです。
それが、黒字化と同時に道が開けました。「ここまで来られたら、会員制サービスまで絶対にいける!」と、事業に対する気持ちは一層強くなりましたね。やっと自分がやりたかったビジネスに進めると、事業自体に完全に惚れ込んでいました。
――事業が上向いたタイミングと、組織が改善するタイミングは一致していたのですか?
柴田 していませんでした。本当に胸を張れる組織になったのは、2013~14年頃です。今でこそFintechなどの言葉も浸透しましたが、2008年頃は「決済」といえば地味で、そもそも人が集まりません。いい人が採れたと思ってもすぐ辞めてしまって、離職率は非常に高く、社員を留められない私は「ダメ社長」と言われ続けていました。
2007年からは新卒採用も始めましたが、頑張っていい人材を口説いても、会社のほうに受け入れ態勢がまったくできていませんでした。会社の風土も教育体制もあったものではなく、先輩社員が「この会社はやめたほうがいいよ」なんて言っているのですから、新入社員が定着しないのも無理はなかったと思います。黒字化しても、組織はそんな内情のまま。なんとかしなければいけないという気持ちが強くなりました。
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更新:11月22日 00:05