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シーン別・心に響く名経営者の言葉18

2016年04月23日 公開
2022年11月16日 更新

本郷陽二(作家/幸運社代表)

 

やる気が起こらないとき、
モチベーションを上げてくれる言葉

人生に満塁ホームランはない。ゴロやバントを狙え。

藤田 田(日本マクドナルド創業者)
1926 年、大阪府生まれ。アメリカで目にしたマクドナルドを日本で展開。1971年に1号店を銀座三越1階にオープンした。

1971年、日本のマクドナルド1号店は銀座三越にオープンした。当時、アメリカ本社は、アメリカのように国道沿いに出店するよう求めたが、藤田は、流行の発信地・銀座への出店を推し進め、結果、開店1カ月目で売上世界記録を達成した。一見大ばくちのように見えるが、実際には一発逆転の成功などないと断言していた。「成功は、いかなる人にも平等に与えられた、この24時間にどれだけ努力するかにかかっている」とも言っており、日々の地道な努力が成功への近道だと教えてくれる。

 

人間は夢を持たねばならないが、
それを実現すべく努力しなければならぬ。

永野重雄(新日本製鐵元会長)
1900年、島根県生まれ。富士製鐵の再建に成功したのが縁で鉄鋼畑を歩むことになり、新日本製鐵会長などの要職を歴任。

東大を卒業したのち、永野は富士製鐵の再建を頼まれ工場長となった。夢に燃えて工場に向かったが、従業員はほとんど逃げ出したあとで、工場を稼働させるめどはまったくつかなかった。永野ができたのは、敷地に生えた雑草を抜くことだけだった。東大卒には我慢ならない雑用だっただろうが、こうした頑張りを経て、ついに再建に成功したのである。夢を実現するためには、泥水をすする覚悟も必要なのだ。

 

やるやつはやるように考えるし、
へこたれるやつはへこたれる方へ考えてしまう。

松永安左エ門(東邦電力創業者)
1875年、長崎県生まれ。戦前に電力業界へ進出し、「電力王」と言われた。終戦後は電力業界の分割民営化に尽力した。

松永は日本屈指の財界人だが、そこに至る道は平坦ではなかった。株式の大暴落で財産をほとんど失い、創立した東邦電力は太平洋戦争で解散。しかし、それでも松永は諦めなかった。だから、再び「電力王」と呼ばれる地位まで登り詰めることができたのだ。これは、そんな彼を象徴する言葉だ。トラブルに遭遇すると、「もうダメだ」とへこたれる人もいるし、「なんとかしてやる!」と奮い立つ人もいる。へこたれた瞬間に夢はついえてしまうことを知っておいてほしい。

 

やりがい、働きがいは、やってみてはじめて出てくる。

土光敏夫(東芝元社長)
1896年、岡山県生まれ。石川島重工業の再建後、石川島播磨重工業社長、東芝社長などを歴任。経団連第4代会長。

経営危機に陥っていた石川島重工業(現・IHI)、東京芝浦電気(現・東芝)を徹底した合理化によって再建した土光。時に社員に厳しいことも言ったが、自身にも厳しい仕事の姿勢は多くの人望を集め、理想の上司と評されている。不本意な部署に異動させられたとき、意にそぐわない仕事を任されたとき、なかなかやる気は出ないものだ。しかし、やりがい、働きがいという仕事の喜びは、やってみてはじめてわかるもの。土光のこの言葉を理想の上司の言葉として受け取ってはどうか。

 

仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。

吉田秀雄(電通元社長)
1903年、福岡県生まれ。1928年に日本電報通信社(現・電通)に入社し、43歳の若さで社長に就任。電通中興の祖。

電通の名物社長であった吉田は社員たちの行動規範として「鬼十則」を示した。ここで紹介したのは、その「鬼十則」の最初に記されている言葉である。与えられた仕事だけやっていればいいと考える人が増えている。しかし、それでは成長は頭打ちとなる。誰にも頼まれていない雑用に率先して取り組んだことで、仕事で重用されるようになるビジネスマンがいるように、誰も気づいていない、誰にも命じられていない仕事にこそチャンスがあるのだ。

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