2016年03月25日 公開
2016年04月06日 更新
アニメやゲームなどのキャラクターを立体造形したフィギュアは数多くのファンを獲得しており、今や日本のポップカルチャーの一翼を担う存在となっている。この10年ほどで急拡大してきたその市場をリードしてきたのが、2001年創業のグッドスマイルカンパニーだ。精巧で複雑なものから、2頭身にデフォルメした『ねんどろいど』まで、多種多様なフィギュアを数多く世に送り出している。同社はいかにビジネスを成長させてきたのか。創業の経緯から最新の動向までを、創業社長の安藝貴範氏にお聞きした。
――もともとグッドスマイルカンパニーはフィギュアのメーカーではなかったそうですね。創業の経緯についてお教えください。
安藝 僕は、当時、バンダイナムコグループのバンプレストにいて、芸能の仕事をしていたんです。ところが、会社が芸能の仕事をやめることになったので、その一部を引き受けてタレント事務所を設立したことから当社が始まっています。
――会社が「やめる」と言っている事業を、会社を飛び出してまで続けたわけですね。
安藝 「一緒にやりたい」と言ってくれるタレントさんたちがいたので、つい(笑)。会社を自分でやることに不安はなかったし、特別な想いもありませんでした。芸能の世界って、社長1人、タレント1人でやっている事務所が、当時、いっぱいあったんです。そういうのを見ていて、「東京ってすごいな。いろんな生き方があるし、みんなそれで食べていけるんだな。だったら僕らも大丈夫じゃないかな」と思ったんです。気楽なものですね(笑)。
――実際に経営をされた経験や実績があったわけでは?
安藝 まったくないですね。タレントさんたちに期待していましたから、「この子たちとやれるなら大丈夫だろう」と思っていました。自分のことについては何も心配していなくて、「この子たちが世の中に打って出るために、どうするか」ばかりを考えていました。それが楽しかったんです。
――芸能の仕事をしたいという気持ちはもともとあったのですか?
安藝 そういうわけではありませんでした。会社が芸能の仕事を始めたとき、大規模なオーディションを行なったんです。それに上司のお手伝いという形で関わりました。最終オーディションの会場は有明の大きなホール。1人ずつ出てきて歌ったり芝居をしたりするわけです。その審査員長を、当時のボスから、途中で「疲れたから、安藝ちゃん、代わって」みたいな感じで任されてしまった(笑)。それで、オーディションを取りまとめて、翌日報告すると、「あとはよろしく」と言われて芸能の仕事を担当することになった、という経緯です。
――そうしてせっかく始めた芸能の仕事をやめると会社が判断したのは、なぜだったのでしょう?
安藝 よくわからないんですけど、たぶん、バンプレストが上場するに当たって事業を整理したということではないでしょうか。事業自体はけっこう順調だったと思いますけどね。
――独立されて、当初から会社はうまく回ったのですか?
安藝 タレント事業といっても人気者はいませんでしたから、そこからの収入はない。できることをやって、タレントさんたちを育成する費用を稼ぐ状態でした。映像制作を引き受けたり、当時流行っていた食玩の企画をやったり、釣り具店をやったりしました。とくに釣り具店は楽しくて、売上げもかなり上がっていました。
――そこからフィギュアメーカーへと事業転換をされたのは、どういう経緯だったのでしょうか?
安藝 タレントさんに逃げられちゃいました。人生最大のショックですよ。以後、あれほどのショックはない。人生をかけて頑張っていたので、もうなんだかよくわからない状況でした。数日前まで「頑張ろうね」という話をしていたのに、突然失踪するという。
理由はご本人にしかわかりません。人気者になるということは同時に失うものも多いですし、つらい思いもしますから、考えるところがあったんでしょう。ちょうど人気が出始めたところだったんで。
――これで、タレント事業は終わってしまった。
安藝 頓挫です。ただ、釣り具店や食玩の企画がうまくいっていたので、会社としてのダメージはあまりありませんでした。
MAX渡辺さんという、当時、当社に所属していたタレントがいるのですが、彼が社長を務めているマックスファクトリーというフィギュアの会社のバックアップ業務をかなりさせてもらっていました。そのうちに、当社がマックスファクトリーのバックオフィスを引き受けて、企画やライセンス管理、製造などをする、というのが主な業務になっていったのです。マックスファクトリーの彫刻の技術は素晴らしいですから、彼らにはフィギュアの彫刻に専念してもらえるように頑張りました。
更新:11月22日 00:05