
職場であえて「仕事ができない人」を装う...。一見すると不合理に思えるこうした行動も、組織の仕組みに目を向けると、個人にとっては合理的な「生存戦略」であることが見えてきます。
なぜ、能力のある社員が自ら無能を演じるようになるのでしょうか。太田肇氏の著書『なぜ「賢い人」が集まってしょうもない意思決定がなされるのか』から、その背景にある「組織の歪み」を解説します。
※本稿は、太田肇著『なぜ「賢い人」が集まってしょうもない意思決定がなされるのか』(日本経済新聞出版)より内容を一部抜粋・編集したものです
組織の中で機会主義が顔を出す、象徴的なテーマが「適材適所」という美名に隠された落とし穴である。
「一人ひとりの能力や適性に合った最適な役割や職場を与える」というこの言葉は、組織運営において一点の曇りもない正論に聞こえる。事実、人事異動に対して不満を漏らす社員がいても、「適材適所を慎重に検討した結果だ」と説明されれば、それ以上反論することは極めて難しくなる。
しかし、ここでの「適材適所」とは、あくまで「会社(組織)にとっての最適化」を指しているに過ぎない。それが、働く個人にとっての意思や利益、あるいは将来設計と一致するとは限らないのである。
次のような、日本企業でよく見られるケースを想像してみてほしい。
営業部と企画部でそれぞれ一人ずつ欠員が出たとする。そこに、社内公募や面談を経て、AさんとBさんの二人が候補に挙がった。本人たちの希望をヒアリングすると、二人とも「ぜひ企画部で働きたい」と強く望んでいる。客観的に見て、二人の企画立案能力に大きな差はない。
しかし、Aさんは非常に社交的でコミュニケーション能力に長けている一方で、Bさんは内向的で、対人交渉にはいささか難がある。この状況下で、会社が「適材適所」の原則に従うなら、社交的なAさんを営業部へ配置し、コミュニケーションに不安のあるBさんを企画部へ配属することになるだろう。
組織全体で見れば、これは極めて「効率的」な人員配置である。しかし、希望が通らなかったAさんの視点に立てば、自らの強みである「高いコミュニケーション能力」が仇となって、やりたくない仕事(営業)に回されたことになる。
これは一種の「能力の罰」である。
このような、個人にとって不条理な人事を目の当たりにした他の社員たちは、以後どのような行動をとるだろうか。
彼らは就きたくないポストや負担の大きい仕事を避けるため、意図的に「その仕事に対する適応力がないふり」をするようになる。無能を装うのだ。
かつてコンピュータが一般企業に普及し始めた頃、IT知識のある社員は有無を言わさず電算室(現在の情報システム部門)に集められた。また英語に堪能な社員は、本人の希望と関係なく海外駐在要員に充てられた。しかし当時、これらの職場は必ずしも出世の王道ではなく、むしろ激務や生活環境の激変を伴う「損な職場」と見なされることも少なくなかった。
その結果、社内では「コンピュータができることは隠しておけ」「英語が得意だと知られたら、海外に飛ばされて一生戻ってこられないぞ」といった、自己防衛のための囁きが広まった。なかには失敗すると責任を問われるような部署に行きたくないので、普段からわざと小さなミスをして大雑把な性格を印象づけようとする者や、「ほどほどに有能だが、使い勝手の悪い社員」というキャラクターを演じる者まで現れた。
余談だが、ある大学でも負担が増える役職に選ばれたくないので、選挙がある教授会の日には頭を茶髪に染めて奇抜な服装で現れ、翌日には黒髪に戻してくる教員がいた。
これは組織全体の最適化を著しく妨げる行為だが、個人にとっては自らの望むキャリアと生活を守るための、極めて「合理的」な生存戦略である。彼らは組織に対し表立って反発したり、異議を唱えたりすることなく、いかにして組織に利用されず、自分の利益を最大化するかを冷徹に計算する「賢い利己主義者」として振る舞っているのだ。
では、そもそもこうした機会主義の根源となっている「個人の利益」とは、いったい何を指しているのだろうか?
それは、家族との団らんの時間から、社内での昇進、やりがいを感じられる仕事の継続、あるいはメンツやプライドに至るまで、極めて多様である。しかし、これらを心理学的な深層まで突き詰めていくと、すべては人間が根源的に持つ「欲求」(needs)に行き着く。
ここで注意が必要なのは、「欲求」という言葉の定義だ。辞書的には「欲しがり、求めること」とされるが、それは不正確である。例えばお金が欲しいとか、大きな家に住みたいというのは厳密には欲求そのものではなく、欲求を満たすための具体的な対象や手段としての欲望である。欲求は人間の内面に元々備わっている、生存や成長のために欠かすことのできない、特定の方向性を持ったエネルギーの源泉である。欲望は、根底にある欲求が
具体的な形となって表出したものに過ぎない。
欲求の理論として広く知られているのは、A・H・マズローが提唱した「欲求階層説」である(A・H・マズロー著、小口忠彦監訳『人間性の心理学』産業能率短期大学出版部、一九七一年)。今では高校の教科書にも載っているくらい、よく知られている。この理論によれば、人間の欲求はピラミッドのように階層をなしている。
最も根底にあるのが、生きるための「生理的欲求」。その上に「安全・安定の欲求」、それから他者とつながりたい、愛されたいという「社会的欲求」、他者から認められたい、自分を価値ある存在と認めたいという「承認欲求」と続き、最上位に、自らの持つ潜在能力を最大限に伸ばし発揮したいという「自己実現欲求」が存在する。
この理論を、前述した組織内の機会主義の例に当てはめてみよう。
例えば、結婚記念日のディナーのために会議を延期しようと画策するAさんの背後には、大切な人から愛され、関係を維持したいという「社会的欲求」が隠れているし、上司に対して過剰にやる気をアピールするのは、「承認欲求」の表れだと解釈できる。
さらに言えば、しばしば企業不祥事の温床となる「見栄」や、不正を断りきれなかった「同調」の根源にも、この承認欲求が深く関わっていると考えられる。上司が自分を敬ってくれる部下に対して評価を甘くしたり、自分のメンツを潰した部下の人事を感情的に妨害したりするのも、承認欲求の表れにほかならない。一方で、組織の論理に背いてまで「自分が信じる仕事」を貫こうとする人は、「自己実現欲求」に突き動かされていると言えるだろう。
強調しておきたいのは、置かれた状況の中で自分の利益を追求する行為(機会主義)の背景には、こうした人間が捨てることのできない根源的な欲求が横たわっているという事実だ。
欲求が人間という生物に備わった「初期設定」である以上、それを組織の力だけで抑え込んだり、充足を阻止したりすることは難しい。仮に可能だとしても、どこかにしわ寄せがくる。不祥事再発防止のため職員の管理を厳しくした公的機関で、勤務時間外の犯罪やトラブルが多発したり、メンタルの不調で休職や離職が増えたりするのはその表れだ。それにもかかわらず、日本の共同体型組織は「滅私奉公」という名のもとに、これらの欲求に無理やり蓋をしようとする。
その結果として生み出される弊害の一つが、表向きは従順な社員を装いながら、裏では「公」を利用して「私」を肥やすという、いびつで危険な機会主義の横行なのである。
更新:08月26日 00:05