
天下統一を成し遂げ、250年続く江戸幕府を立ち上げた徳川家康。彼は誰を師匠として、何を学び、どのように活かしていったのだろうか。解説してもらった。
※本稿は、加来耕三著『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
勝海舟と坂本龍馬は、非常に相性の良い師弟でした。
龍馬が海舟の性格まで把握していたかどうかは定かではありませんが、師匠と弟子の間に「合う・合わない」の相性の問題があることは事実であり、この相性は師匠選びの重要な要点(ポイント)になります。とくに、師を尊敬できるかどうかは重要でした。
そのことの重要性を示す例として、徳川家康が挙げられます。彼は当初、のちの豊臣秀吉=木下藤吉郎同様、織田信長に憧れ、彼を兄とも師匠とも敬い、その言動や考え方を模倣しようとしました。
かつて「桶狭間の戦い」において、2万を超える今川義元軍をわずか3000弱の兵力で討ち果たした信長の姿に、今川軍側として参陣していた若き家康は衝撃を受け、自らも信長の如くありたい、と切実に願ったのです。
その後、家康は当主義元を失った今川家を離れて、織田家と同盟を結びます。
そのおかげで、東の憂いを断った信長は西へと進攻して、畿内を抑え、〝天下布武〟に邁進することができたのですが、元亀3年(1572)、戦国最強と謳われる武田信玄が2万5000の兵を率いて武装上洛を開始し、その途上で家康と衝突しました。12月22日(以下、すべて旧暦)のことです。
このとき、徳川軍の兵力はわずか8000ほどで、織田家からの援軍を加えても1万1000に過ぎませんでした。2倍近い兵力差があるうえ、相手は百戦錬磨の武田信玄であり、質量ともに敵う相手ではありません。徳川の家臣たちは、浜松城での籠城を具申しました。
ところが家康は、自分の領地を敵が踏み荒らしていくことに激昂し、圧倒的な不利を承知で出撃したのです。家康はこのとき31歳という働き盛りで、武将としての自信と多少の慢心もあり、信長が27歳で演じた「桶狭間の戦い」=奇襲戦を再現しようと、意気込んだのでしょう。
しかし、桶狭間の勝利は、相手に気づかれず、大雨の中の奇襲だったからこそ成功したものであり、武田軍に情報操作されて、浜松城を無視して先を急ぐ、途中の祝田(三方ヶ原の北)で弁当を食べる、などのニセ情報に乗せられて、迂闊にも飛び出し、待ち構えられていた敵に迎え撃たれるのでは、そもそも勝負になりません。
家康本人が生命からがら城に逃げ帰るほどの大敗を喫し、後に「三方ヶ原の戦い」と呼ばれるこの合戦で、徳川方は兵力の10分の1=1180名もの戦死者を出してしまいました。対する武田軍の損害は、その6分の1程度だったといわれています。
家康は、信長ほどの才能がない自分が、信長の真似をしても無理があることを痛感し、猛省しました。そして、凡庸な自分でも学べる新たな見本(モデル)を懸命に探し、ついには自らを打ち負かした武田信玄に行き着いたのです。
武田信玄も信長に劣らぬ名将でしたが、性格(タイプ)が商人気質の信長とは大いに異なり、信玄はどこまでも農耕の民風で自分に似ていて、その手堅さ、慎重さに共感をもったことによるものでした。
信玄は「勝利とは五分をもって上とし、七分をもって中とし、十分をもって下とする」という言葉を残しており、大勝利ではなく、10のうち5を勝てば十分だという手がたく勝つことを信条としている人物でした。
家康は自分のような凡人こそ、信玄の堅実さを学ぶべきだと考え、立居振舞や髭の生やし方、服装の好み、言葉遣いから、さらには軍略・兵法にいたるまでを武田流(甲州流)に改めました。真似をしたのです。
そして常に、「こんなとき信玄ならばどうするか」と自問自答をくり返しながら、着実に力をつけ、ついには天下統一を成し遂げました。
なによりも筆者が驚かされたのは、〝天下分け目〟の関ヶ原の戦いで、家康が用いた戦法が、実はかつて自分が敗れた三方ヶ原の戦いの再現であったことでした。
信玄が自分に対して仕掛けた戦法ー普通ならば、一刻も早く忘れてしまいたい敗戦を、家康は大垣城に立て籠った石田三成を誘き出し、得意の野戦で決着をつけるために真似たのでした。
普通に考えれば、大敗した三方ヶ原の戦いは、家康にとって痛恨の黒歴史であったはずです。けれども家康はそれすらも、信玄を「師匠」とする一環として、忘れることなく学び、応用したのでした。
自分の能力や相性に合った師匠を選び、学ぶことが、家康を天下人へと押し上げた原動力となった、といえるでしょう。具体的な師匠の選び方については、第3章で詳しく見てみたいと思いますので、ぜひ参考にしてください。
更新:05月07日 00:05