
日本トップクラスの野球系インフルエンサーにして、新刊『野球ビジネス』が発売されたトクサンTV。自身もかつて大学野球の一流選手であり、データや歴史にも深い造詣を持つ氏が、今日の日本野球界の発展に貢献した名選手たちを紹介する。
※本稿は、トクサンTV著『野球ビジネス』(クロスメディア・パブリッシング)より一部抜粋・編集したものです。
これまでさまざまなスター選手がいらっしゃいましたが、日本のプロ野球を変えた歴史的な人物として、1936〜1943年に読売ジャイアンツで活躍された右腕・沢村栄治さんを挙げたいと思います。
プロ野球の創成期である戦前、1937年春(当時は前後期制)に24勝を挙げた剛速球投手。1936年には日本プロ野球初のノーヒットノーランを達成した偉大なる投手で、ノーヒットノーランは合計3度(1936、1937、1940年)達成しました。
しかし、一番すごいのはプロ野球の球団が誕生する前の1934年。日米野球の第9戦で、あのベーブ・ルース(当時ヤンキース)をはじめとするメジャーリーグの強打者打線から9三振を奪った試合です。
このときのメジャーリーグ打線がすごいんですよ。ルースは言わずもがな、この1934年にシーズン三冠王を獲得した〝鉄人〟ルー・ゲーリッグ(同)、前年1933年三冠王のジミー・フォックス(アスレチックス)ら、そうそうたるメンバーがそろって来日したのです。
ゲーリックにソロを被弾して敗れましたが、8回1失点9奪三振。それまで8戦全敗でボコボコにやられているなかで、1失点に抑えて負けるという、とんでもないゲームをやってのけた。沢村投手の活躍によって、体格差があっても「日本もやれるんだ」と希望を抱いた人たちはたくさんいたでしょうね。だからこそ、毎年最も活躍した先発投手に贈られる表彰に「沢村栄治賞」の名前が冠されたわけです。
1944年12月2日、乗船していた輸送船が東シナ海で米軍潜水艦に撃沈されて亡くなられたそうですが、この第9戦が行われた静岡・草薙球場には現在も、当時を記念して沢村投手、ベーブ・ルースの銅像が建っています。
プロ野球を一躍、国民的人気スポーツに押し上げたのは、戦後ではやはり巨人・王貞治さん、長嶋茂雄さんのいわゆる「ONコンビ」ですよね。
長嶋さんは1959年6月25日の阪神戦、昭和天皇が初めてプロ野球を球場で観戦されたという「天覧試合」でサヨナラ本塁打を放ったことで、日本のプロ野球人気を押し上げた――とされています。たしかにそうなのですが、長嶋さんはその前に東京六大学リーグの人気を全国的なものにした功労者でもあるのです。
日本の野球は学生野球が源流となっていることは第1章でも述べた通りで、「職業野球」と呼ばれたプロ野球よりも、戦前戦後はアマチュア野球のほうが人気。東京六大学リーグはラジオで実況中継されたことで、全国的に知れ渡るようになりました。
戦後まもなくは早稲田大学、慶應義塾大学の「早慶」のいずれかが優勝することが多く、当時のラジオを聞いていた方々のなかには、東京に行ったことはないけれど、早稲田大学の校歌、通称「都の西北」を歌える人もいます。
1954年に長嶋さんが立教大学に入学すると、2年秋から5季連続でベストナインを受賞。4年時には早慶の牙城を崩して春秋連覇を果たし、当時新記録の通算8本塁打をマークしました。
長嶋さんきっかけで全国津々浦々に東京六大学の名前が広がり、地方在住の人たちも「早慶は知っていたけれど、立教?東京六大学リーグってすごいわけ?」のようになっていったと思われます。
そして時は経ち、現在のメジャーリーグブームにつながる分岐点をつくった人物が野茂英雄さんです。1995年に、近鉄との契約更改が難航し国内ではプレーできない任意引退選手扱いとなり、野茂さんは日本球界では前例のない旅立ち方、つまり自分の意思でメジャーリーグへ移籍しました。
野茂さんは移籍1年目、奪三振王と新人王を獲得。その後、2度のノーヒットノーランを達成するなど、日本の選手がMLBでも活躍できることを示してくれました。野茂さんが切り開いた道。
2001年にイチローさん、2003年に松井秀喜さんが海を渡り、メジャーリーグのなかでもトップクラスの活躍をしましたよね。日本のプロ野球はけっして内輪のものではなく、メジャーリーグにも通用するものだったことが証明されたわけです。
更新:04月21日 00:05