2024年10月22日 公開
「三宅裕司のヤングパラダイス」などで一世を風靡した、マルチタレントの三宅裕司さん。 座長を務める劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」は創設45周年を迎え、「ニッポン狂騒時代〜令和JAPANはビックリギョーテン有頂天〜」が絶賛公演中。 『THE21』2024年11月号では、現在の意気込みと目標を聞いてみた。
取材・構成:横山由希路 写真撮影:まるやゆういち スタイリスト:加藤あさみ(Yolken)
※本稿は、『THE21』2024年11月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
――毎年コンスタントに本公演を上演するスーパー・エキセントリック・シアター(以下、SET)ですが、今年も秋となり、新作舞台の時期になりました。「ニッポン狂騒時代~令和JAPANはビックリギョーテン有頂天~」は、洋楽カバーポップスの訳詞家と60年安保の学生運動家との青春ストーリーとのことで、この時代に焦点を当てるきっかけはどんなところにありましたか?
【三宅】僕は自分の青春時代だった60年代の歌が大好きで、その時代に流行っていたのがアメリカンポップスだったんですよ。そのときに『ルイジアナ・ママ』などのカバーポップスの訳詞を手がけていたのが、漣健児さんという方で。日本語の面白い部分を上手に8ビートに乗せる。桑田佳祐をはじめ、リスペクトしているミュージシャンはたくさんいて、現在のJ‒POPの礎を築いた一人ですね。
ずっとカバーポップスをテーマにした舞台がやりたかったんですが、漣さんの日本語訳詞に賭けた情熱の他にフックになる要素を探していて、そんなとき学生運動をテーマにしたインターネットの討論番組を観たんですね。そうしたら、団塊の世代の方が「僕も学生運動をやっていたけど、結局アレは何でもなかったんですよね」と言ったんです。
これは面白いなと思って。60年安保とカバーポップスの流行は、同じ時代に起きているから。かたや学生運動はアメリカの言う通りに日米安保条約を改定するのがイヤだと言い、カバーポップスはアメリカの曲にどう日本語を乗せたらヒットするかを考えている。この2つを軸にして、恋愛を絡めたら面白いかなと思ったんですね。
もう一つ面白かったのは、団塊の世代の方が「結局、何でもなかったんだよな。俺たちの学生運動は」と言ったときに、若い人が「いや、でもそんなことはないんじゃないですかね」と意見したこと。
その様子を観たときに、もしも60年安保と同じ状況になったら、今の若者は果たして立ち上がるのだろうかと考えたんです。このテーマで、今の若い人たちに何かメッセージを伝えられないかな、と。それが企画の発端でしたね。
――1969年に三宅さんは明治大学に進学されます。どんな学生時代を過ごされていましたか?
【三宅】僕はもう、ジャズコンボバンドとコミックバンドと落語研究会を掛け持ちする、まったくのノンポリでしたから。「安保反対!」の声の後ろで「インポ、治せ!」と言っていたぐらいで(笑)。
当時、教授が授業を始めようとすると、学生運動の生徒が「集会をやりたいので、お時間をください」と先生に交渉するんです。それで、僕は授業がないから帰ろうとすると、学生運動の生徒に言われるわけです。「君は日本や社会について考えないのか? 何も考えていない君は、サルと同じだ!」って。それで僕はサルのマネをして教室を退場するという(笑)。
――大学を卒業されたあとに、SETを旗揚げされます。俳優、演出家になられた原点はどこにありますか?
【三宅】東京・神保町の大家族で育ったことが、自分に大きな影響を与えているんですよ。きょうだいの上3人が戦後の混乱期に亡くなり、それで産まれた5番目の末っ子が僕です。なので、それは可愛がられました。
また母が9人きょうだいの長女で、叔父叔母が16人。それぞれの夫婦に2人子どもがいたとして、いとこが16人いる計算になりますから正月とか親戚一同が集まると、子どもの中で誰が面白いかを競うわけです。
そんなとき、可愛がられるために人の顔色をどうしても見ちゃいます。だから親戚の中でいかに愛されるか、よく思われるかということを、小さい頃からずっと考えているわけですよね。
ですから当然、学校でも人気者でした。ただ、小学校のときは特に何もしなくても成績も良かったのが、中学校に入るとそうもいかなくなり、勉強は諦めて「面白い」に磨きをかけることに。そしてついに、高校の落研(おちけん:落語研究会)で自分の生きる道を見つけてしまうわけですよ。
日本舞踊の師匠の母と、芸者の置屋を営む叔父と、松竹歌劇団にいる叔母のいる環境で育ちましたからね。そんな芸能一家で育った僕が、芸事で他人に負けるわけがないですよね(笑)。
大学のときも、学園祭が一番忙しかったですね。大学が主催する一番人の集まるステージでジャズコンボバンドやコミックバンドの演奏をする。その合間を縫って落研の高座で落語をやって。そりゃあ、モテますよ(笑)。
――その後、演出も手掛けられるようになるわけですが、当時からご自身がスポットを浴びながらも、同時に周りの方をどう活かすかも考えていらしたのではないでしょうか?
【三宅】全員が楽しくなることばかり考えていましたね。今のSETにつながる話ですが、みんなが一度に笑うと、一番気持ちがいいじゃないですか。だから学生時代の飲み会のときも、遠くの席で静かに飲んでいる仲間も一緒に笑ってくれないとイヤなんですよ。だから飲み会のメンバーが一つになるために、どうやって話せばいいか、どういう席順で座ったらいいかまで考えていました。
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劇団員から信頼されるには舞台で結果を出すしかない >
更新:11月21日 00:05