2021年06月01日 公開
2023年01月19日 更新
――2000年、相方のやすさんと「ずん」を結成。いわゆる「通」の間で愛される芸人として、30代を過ごすことになった。
「技術もある程度身につき、得意なものまねも、一発ギャグもある。ゆえに中途半端に『食えている』。そのせいで、呆れるくらい危機感の薄い二人でした」
――そんな飯尾さんが初めて焦りを覚えたのは、芸歴15年目を迎えた37歳のとき。
「ある日、馴染みの喫茶店でやすとネタを書いていたら、キャイ~ンのウド鈴木から電話が入ってきました。用件は『ごめん、仕事が押して忘年会遅れる』。
……そう、その日は12月29日、芸人の稼ぎどき真っ只中。なのに僕たちは3日連続でこの店に長居している。何となくできる風を装っていただけで、何もできていなかった自分たちに気づきました。『紛れもなく、俺たち崖っぷち。どころか崖から落ちている途中だ』と青ざめました」
――ネタ作りをいったん中止し、その場で対策を話し合った。そして、二人が出した結論はというと……。
「『今まで以上に人に甘えよう』。これは『失敗を恐れずにいこう』という意味。何にでもチャレンジして可能性を広げることにしたのです。『言葉に詰まったら好きな食べ物でも叫んどけ、スベったらMCに丸投げだ!』――ひどい決心ですが、二人とも本気でした」
――年越しの初仕事で、二人はそれをさっそく実践した。
「MCさんとかけ合いを始めて1分後、やすがいきなり叫んだんです『ホタテ~!』と。その瞬間、二つの学びを得ましたね。『ああ、1分もたないんだ』『やす、ホタテ好きなんだ』と(笑)。
当然スベりました。でも続けるうちに徐々に形ができてくる。『え、今の何!?』といじってもらって笑いにつなげる、そんなやり方を作っていきました」
――もう一つ決めたのは、「わかったふりをしないこと」だった。
「わからないことは何でも質問しよう、と。『芸歴が長いのに恥ずかしい』なんてカッコつけてる場合ではないから、どんどん人の助けを借りよう、と腹をくくりました」
――が、苦境はその後も続き、40歳で最大のピンチが訪れた。
「40歳で家賃が払えなくなったんです。それまでは大家さんに待っていただいて、翌月に2カ月分払う、という方法でしのいでいたのですが、それさえ難しくなり、安い部屋に転居。同時にアルバイトも始めました」
――かつての後輩が経営する清掃会社で、若い社員のアシスタントという立場で清掃業務に従事。
「『俺のほうが年上なのに』なんてことは考えませんでした。10代の社員さんから『この仕事向いてますよ、センスいいです!』なんて褒めてもらったりして。初めて外の世界に触れたのも新鮮な経験でしたね」
――お笑い以外の仕事をしたのは、これが初めてだった。一本の道をわき目も降らず歩んできた飯尾さんの「仕事愛」がうかがえる。
「やすのほうは色々なアルバイトをしていました。やすはバイト先でも着実に信頼を重ねて出世するので、『身を固めたい』と言い出されないか心配で心配で。早く売れなくちゃ、と切実に思っていました」
――その思いは、突然叶うことになる。引っ越しから3カ月後、なぜか仕事が急増。その理由は今でもよくわからないそうだ。
「これまで一緒に仕事をしたスタッフの皆さんが、それぞれ出世されたことが一因でしょう。かつてのADさんがディレクターやプロデューサーになって、僕たちに声をかけてくれたのだと思います。キャイ~ンやナイナイやネプチューンも、よく番組に呼んでくれました。つまりは僕の力でなく、周囲の力です」
――どこまでも謙虚な分析だが、飯尾さんの「人間力」が仕事につながったのは間違いない。
「僕は天才でも何でもないし、時代を読む力もありません。それでもここまで来られたのは、やはり図々しさゆえ。周りに甘え、助けてもらってでも、この世界にいたかった。20年間も家族や友人に心配をかけ続け、それでも辞めなかった。ただの自分勝手な人間ですよね」
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更新:11月23日 00:05