2019年10月16日 公開
2023年02月24日 更新
先行業績を学び先人を模倣することは、創造のために不可欠です。しかし、それは、「材料」として必要なのです。それに埋もれてしまうのが、権威主義であり事大主義です。
模倣的創造と権威への盲従とは、全く別のものです。両者は、意図において本質的に異なるものなのです。模倣的創造とは、創造を目的とし、その出発点として模倣します。最終的な目的は、模倣からの脱却です。これに対して、権威主義に陥っている人々は、創造の意欲を持っていません。
しかし、現実には、模倣と創造のバランスを適切にとるのは、難しいことです。実際には、両者の差が「紙一重」であることも少なくありません。このバランスこそが、創造的作業における最重要のポイントです。
「学んで思わざれば則すなわちくらし。思うて学ばざれば則ちあやうし」という論語の教え(為政第二)は、この点を指摘したものです。これを心に刻み込み、つねに忘れないようにしましょう。
【ポイント】模倣的創造と権威主義は、全く別のものだが、「紙一重」でもある。模倣と創造のバランスを適切にとることが重要。
島国で同質な人々が多い日本では、異質なものを排除しようという考えが支配的になります。しかし、これは、発想には最悪のものです。なぜなら、新しいものは「異質なものの組み合わせ」で生じるからです。
意見を求めるなら、異質な意見の持ち主からのものが最も有効です。議論をするなら、できるだけ異質な人を参加させる必要があります。しかし、日本社会では、なかなか難しいことです。批判されるのを嫌う人が多いからです。批判されると、全人格が否定されたと感じる人が多くいます。
異質性の排除は、攘夷主義にもつながります。英語の拒否や、「アングロサクソンの支配」に対する反発も、同じ考えから生じるものでしょう。
新しい技術に対する敵愾心も、これと似た心理状態から発します。
私は、新しいものに何でも飛びつけ、といっているのではありません。また、伝統的な価値を否定するのでもありません。しかし、新しいものを「新しい」というだけの理由で否定するなら、それは進歩の拒否以外の何物でもありません。
【ポイント】異質性の排除も、発想の敵。これは、外国の拒否や、新しい技術に対する敵愾心も引き起こす。
更新:11月25日 00:05