2019年10月16日 公開
2023年02月24日 更新
(写真撮影:まるやゆういち)
発想の敵は、一般にいわれるように「模倣」なのではなく、われわれ自身の中に、あるいは周囲に、ごく普通に見られる生活態度や考え方だと、野口悠紀雄氏は指摘する。
※本稿は、野口悠紀雄著『AI時代の「超」発想法』(PHPビジネス新書)の一部を再編集したものです。
発想の敵となる第一の要素は、個人の中にあります。その最大のものは、事大主義、権威主義です(事大主義とは、大に事〈つか〉えることをいいます)。
本人の中身は空虚であるにもかかわらず(あるいは、それゆえに)、「大きなもの」「偉いもの」によりかかって自分を大きく見せようとします。つまり、「虎の威を借る狐」です。
この病に冒されている典型的な人々は、学者(正確にいうと、えせ学者)の中に見出されます。彼らが書いたものを見れば、内容を読まなくとも、形式基準だけで判定できます。その見分け方を以下に述べましょう。
第一に、中身がないのに、引用がやたらと多くあります。「マルクスによれば」「ケインズによれば」「ハイエクによれば」……と、引用の寄せ集めのような論文もあります。経済学の場合についていうと、経済の動きを理解するための理論ではなく、「経済学学」になっています。つまり、経済学者(通常は欧米人)が何を言ったかの説明に終始しているのです。
こういうものを、「狐文」と呼ぶことができるでしょう。狐文が尊重されるのは、必ずしも日本の特殊事情ではありません。しかし、島国であり外国語との言語格差が著しい日本では、権威を海外に求める狐が跋扈しやすいのです。
第二に、「私は……と考える」「私の意見では……である」という一人称代名詞が現れません。その代わり、必ず「……といわれている」「……が学界の大勢である」となります。あるいは、「よく知られているように」「……といわれて久しい」などとなります。主張すべき自分の考えを持っていないから、こうした表現になるのです。逆にいえば、「私は……」と書いてある論文は、信頼できることが多いといえます。
第三に、簡単な内容をことさら難しく書きます。一度読んだだけでは分からないような複雑な構成の文章です。内容の貧弱さを暴露させないためには、人を寄せ付けないことが必要であり、そのために難解さの壁を築くからです。それが嵩じて、難解さこそが重要だと勘違いしているのです。本当に優れた作品は、相手に理解してもらおうという迫力に満ちており、素直に頭に入ります。
権威主義者は、ジャーナリストにも多くいます。もっとも、学者のような文章を書いては、誰も読まないので、文章の形式だけでは判別できません。ただし、中身はないので、少し読み進めばすぐに分かります。そして、会って5分も話せば、さらに明白になります。権威には盲目的に服従しますが、そうでない人には高圧的になります。
こういう考えを持つ人から新しいアイディアが出てくるはずがありません。こうした人々は、発想を拒否しているのです。事大主義と権威主義こそ、発想の最大の敵です。
【ポイント】本人の中身は空虚であるのに、権威によりかかって自分を大きく見せようとする「事大主義」と「権威主義」は、発想の最大の敵。学者には、この病にかかった人が多い。彼らの文章には権威の引用しかないから、容易に判別できる。
更新:11月25日 00:05