2017年04月10日 公開
2023年07月12日 更新
宮崎氏は、京の細い糸と、江戸の太さの中間の糸を考案したという。ただ、肖像刺繍に関しては部分的に細糸を使用して製作する。
とはいえ、修業中は9:00から18:00まで正座し続けていたのがとてもきつかったという。
「印象に残っているのは、師匠が不在のときに起こった出来事。多くの繍い人が足を崩していたのですが、その様子をしっかりと娘師匠の母が監視していました。俗に申す、障子に目あり壁に耳ありです。右の言葉と母に教えられた『地にいて乱を忘れず』を思い出した結果、トイレに行く以外に足を崩さなかったため、また一段と信頼してくださり、さらに新しい技術を教えてくださいました」
宮崎氏はいつも手を抜かず、技術の向上に余念がなかった。しかし、この向上心が仇となり、ある事件が起きてしまう。
「修業開始から5年、先輩から上達を見込まれ、人物を刺繍する肖像刺繍を教えてあげましょうと先輩に声をかけられました。私は『ぜひ』と思ったのですが、少し気にかかることがありました。
当時、大六氏が亡くなり、娘さんが研究所を継いでいたので、彼女が代表となりました。ですが、彼女は顔の刺繍が苦手なようでした。もし、私ができるようになれば、彼女の面目は丸つぶれです。
ただ、どんどん新しい技術を吸収したい私は、抑えきれずにその温情に甘えて通い指導を受けました。
それでも、どこから秘密が漏れたのか、破門同然の扱いを受けました。それでも、研究所にはお世話になったのですから、そんな対応を受けてからもお礼奉公を2年のところ、3年続けました。針のむしろでしたけどね(笑)」
結果的に、宮崎氏は28歳で独立することになった。
その後、カルチャーセンターなど、いくつかの刺繍教室を掛け持ちしていたという。しかし、月謝は最低限しか貰わなかった。
「修業時代には金銭をいただきませんでした。お金が発生すると手が荒れると教わりました。その教えが沁みついているのだと思います。依頼者の心を読み、より一層良い作品を刺すには、お金のことを考えてはいけないと言われたのです。
厳しかったですが、すべてよい経験と教えを身につけさせていただいた修業時代でした」
また、並行して刺繍作家としての活動もスタートした。
「短大でお世話になっていた先生の紹介で、手工芸協会という組織に所属させていただきました。そこで、美術館への出品を勧められ、1年に1作のペースで作品を作り始めました。
そんな折、石川県能登半島で観賞した揚羽の蝶を能の世界でイメージし、歌舞伎の配色を融合した風呂先屏風を製作しました。その作品が、偶然にも他国を回って、モナコの宮殿に作品はゆきました。
その後、展覧会出品がご縁で協会の創設者と共に現代手工芸作家協会発足の一人となり、ここで先代会長に手工芸・作家の心得他を教えていただきました。この教えが、現在も活動しているネオ・ジャパニズム委員会の活動に生きています」
更新:11月24日 00:05