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原発事故によって避難を余儀なくされた人たちの「今」 〈3〉

2016年03月10日 公開
2023年01月12日 更新

藻谷浩介(日本総合研究所主席研究員)

 

「までい」は方言で、漢字では「真手」と書き、左右揃った手、両手という意味だそうだ。そこから、丁寧に、大切に、念入りに、手間暇を惜しまず、心を込めて、つつましく、などの意味が派生している。村のトレードマークも、両手でハートを包む形をしている。

「原発事故当初は、原発から距離のある私たちの村は影響がないだろうと思っていました。しかし、3~4日経ってくると、風向きの影響で飯舘村の線量が高いことがわかってきた。1カ月ほどは、その対応に追われていました。

 それから、年間20ミリシーベルトを超えているので、約1カ月の間に計画的避難をするようにという指示が出ました。一部は屋内退避ですむのではないかと思っていたのですが、最終的には福山(哲郎)官房副長官(当時)たちが説明に来られて、全員が避難することになりました。1時間の面会の予定でしたが、私は飯舘村をゴーストタウンにしたくないと思いましたから、なんとかならないかと、2時間半、粘り強く話をしました。

 そのときは腹案があったわけではありません。しかし、あとで戻ってきてみると、屋内は線量が低いことがわかりました。そこで、屋内だけなら、あるいは日中だけの滞在なら年間20ミリシーベルト以下の被曝ですむのではないかと、国と交渉しました。

 とくに、特別養護老人ホームは残してほしいと訴えました。別の施設に運ばれて、さらに別の施設へと移されて、そうしているうちに具合を悪くして亡くなる方がいたからです。交渉によって、入居者は減っているものの、特養は今も元の場所にあります。

 300名ほどが働いていた菊池製作所の工場も、閉めると再開が難しいと思いましたし、ほとんど室内で仕事をしていますから、操業を続けられるようにしました。同社は避難中(2011年10月)にJASDAQに上場しています。天皇、皇后両陛下も(13年に)訪問して激励してくださいました」(菅野氏)

 避難生活を送っている住民たちは、次第に心身ともに疲れが出てきて、健康を害する人も増えており、とくに高齢者の脚が弱っているのが目立つそうだ。「今の人員でできることはやっているが、住民からすれば、もっとなんとかならないのかという気持ちがあるだろう」と菅野氏は話す。

「住民の90%は飯舘村から1時間以内の場所に避難しており、今のところ、もとのコミュニティはなんとか維持できています。とはいえ、放射線量によって村が3つの地域に分けられ、それぞれ賠償の金額が大きく違うことから、コミュニティがバラバラになっていくという問題も抱えています。これは、他の災害とは違う、放射能汚染特有の問題でしょう。

 学校を再開しても子供たちが戻ってこないという問題もあります。飯舘村では、幼稚園は35%、小学校は48%、中学校は58%の子供たちが仮設の村の学校にスクールバスなどで通学していますが、自治体によっては数%のところもあります。地域のために戻ってきてほしいと簡単には言えないのも、放射能汚染の特異性だと思います。避難指示が解除される予定の2017年には村内で学校を再開することにしていますが、それに対して多くのご批判をいただいています。とはいえ、住民が戻れる環境を整えるうえで、学校は欠かせないと考えています」(菅野氏)

 このような状況の中で、菅野氏は「自分たちでできることは自分たちでして、要求すべきは要求する」という姿勢を貫いている。「自助」をせずに「公助」に頼ろうとばかりすることには批判的だ。

「『までいライフ』の考え方の1つに、自分さえよければいいと考えずに、互いに相手を気遣う、というものがあります。その例を挙げると、つい先日(2015年11月25日)、蕨平という地区で、丸川(珠代)環境大臣たちも出席されて、仮設焼却施設の火入れ式が行なわれました。ここには、飯館村と周辺5市町の合計6市町村から放射性廃棄物が搬入されます。周辺の自治体には避難した住民たちを受け入れていただきましたから、飯舘村も周辺の自治体のためにできることはしなければならないと考えて、焼却施設を受け入れたのです」(菅野氏)

 また、原発事故からの学びとして、大量生産、大量消費、大量廃棄による経済発展の見直しも訴える。

「これも、『までいライフ』の1つです。私たちは、日々の忙しさの中で、大切なことを忘れているのではないでしょうか。お金だけがすべてではないはずです。私もコンビニを利用しますが、全国にこんなにたくさんのコンビニや自動販売機が本当に必要なのか。本当の幸せとはなんなのか。『わずかしか持たない者ではなく、多くを望む者が貧しいのである』という格言があります。原発事故から何も学ばないとしたら、私たちの被害はムダになってしまうと思っています」(菅野氏)

 帰村に備えて、村では2011年7月に三宅村の村長(当時)である平野祐康氏を招いて、その経験を聞いた。そこから3つの教訓を得られたという。

「1つ目はリスクコミュニケーションの大切さです。各地に避難している住民たちに、帰村したら火山ガスのリスクとどうつきあえばいいのか、伝えていたということです。私たちもそれに学んで、冊子を発行したり、タブレットを活用したりと、住民に対する広報に力を入れています。2013年には全国広報コンクールの内閣総理大臣賞をいただきました。

 2つ目は、復興には、帰村しない住民も一緒になって取り組む必要があるということ。三宅村では全村避難から4年半で避難命令が解除されて、帰村した住民が約6割だったということですから、飯舘村ではもっと厳しいかもしれません。

 3つ目は、村の職員に退職者が多く出たということ。叱咤激励していたのだけれども、メンタル面などへの配慮が足りなかったのではないかという反省です。こうした三宅村の経験を活かしたいと思っています」(菅野氏)

 飯舘村役場飯野出張所を出たバスは、川俣町を抜けて、県道12号線を飯舘村へと向かう。阿武隈山地を登る道だ。南相馬市に抜ける幹線道路なので、交通量が多い。

 坂を上り切ると、山の上に平坦な農地が広がる。除染によって出た廃棄物を詰めた黒い袋が大量に積まれている農地もある一方、試験的に作付けを行なっている田んぼもある。雑草が生えたまま放置されているところもある。

除染によって出た廃棄物が積み上げられている

 

 除染のためには表土を取り除かねばならないが、農地の表土は、農家が長年をかけて作り上げたものだ。それが失われるのは、どういう気持ちがするものだろうか、と、藻谷氏は車窓の風景を見ながら思いを馳せる。

 道路沿いには、飯舘牛の広告をする看板や、地元の物産を売っていた直売所の跡などが続く。

 途中、県道から外れて村役場に向かった。菅野氏の話に出てきた特養は、村役場のすぐ隣にある。この一帯は、東京の郊外のような近代的な住宅地になっている。もちろん、現在、住んでいる人はいない。

〈4〉へ続く》

《写真撮影:まるやゆういち》

著者紹介

藻谷浩介(もたに・こうすけ)

〔株〕日本総合研究所主席研究員

1964年、山口県生まれ。日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)、米国コロンビア大学留学などを経て、現職。2000年頃より地域振興について研究・調査・講演を行なう。10年に刊行した『デフレの正体』(角川新書)がベストセラーとなる。13年に刊行した『里山資本主義』(NHK広島取材班との共著/角川新書)で新書大賞2014を受賞。14年、対話集『しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社)を刊行。

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