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原発事故によって避難を余儀なくされた人たちの「今」 〈2〉

2016年02月17日 公開
2023年01月12日 更新

藻谷浩介(日本総合研究所主席研究員)

「藻谷浩介と行く飯舘・南相馬」講演ツアー同行取材ルポ

 

〈1〉から続く》

 

[大堀相馬焼協同組合二本松工房]
土地を離れて伝統を守る窯元

 次に訪れたのは、大堀相馬焼協同組合二本松工房。二本松市内にある小沢工業団地の中にある。プレハブの建物の中で、浪江町から避難してきた21の窯元の作品が展示、販売されており、陶芸教室も開かれている。

 


大堀相馬焼協同組合二本松工房

 

 大堀相馬焼は350年ほど前から続く伝統ある焼き物で、現在の浪江町大字大堀で生産されてきた。江戸時代には相馬藩が治めていた地域のため、大堀相馬焼と呼ばれる。

 ちなみに、相馬藩の藩主である相馬氏は、鎌倉時代から明治時代に至るまで、ずっと同じ地域を治め続けてきた。こうした例は、他には鹿児島の島津氏など、10例ほどしかないそうだ。もとは南相馬市小高区を本拠とし、江戸時代は相馬市中村の中村城を政庁とした。

 有名な相馬野馬追は、相馬藩の結束を象徴する行事だ。武士の格好をして馬に乗った人たちが馬を追い回す勇壮なもので、もとは軍事訓練だった。鎌倉時代から続き、東日本大震災のあった2011年は中止したものの、翌年には再開した。

 工房では、前組合長の半谷(はんがい)秀辰氏がツアー参加者に話をした。

 


ツアー参加者に話をする半谷秀辰氏

 

「私たちの避難生活は4年8カ月になりますが、まだまだ心は元どおりになっていません。国と東電に裏切られたという思いは、やはりあります。浪江にある私の家で放射線量を計ると、依然として高い。国の発表は信用できないと思っています。そんなところに帰れないし、子供にも帰ってほしくない。私は62歳ですが、70歳、80歳になって、死ぬ前には帰りたいとは思っています。でも、それも叶わないかもしれません。

 私の父は(2015年)2月13日に亡くなりました。絶対に大堀に帰って死にたいと言っていましたが、叶うことなく、病院で亡くなりました。お通夜と本葬の間に時間がありましたので、遺体を大堀に連れて行ったんです。思い出のある陶芸の杜に行ったり、田んぼが大好きでしたから田んぼを1周したり、住んでいた家に30分間休ませたりしてきました。それが最後の親孝行と自分で納得しました。故郷で息を引き取りたいという願いも叶わないのが現状なのです。

 そういう悔しい思いをしながら、私たちはここで伝統を守っています。初めの頃は全国から多くの応援や協力をいただいていましたが、だんだんと減ってきました。それは覚悟していましたし、甘えてはいられないと考えています。

 とはいえ、故郷を離れて商売をするというのは、本当に難しい。二本松工房も、1億1,000万円をかけて施設を作りましたが、5年で見直しです。そのときには浪江の放射線量が下がって帰れるかもしれないから、という理由です。来年(2016年)がその見直しなのですが、まだ帰れませんから、二本松市さんにはこれからもお世話になることと思います。みなさんからの温かい協力、また、『苦しいだろうけど頑張れよ』という言葉だけでも、私たちの励みになります。

 私たちの組合では、若い人たちが頑張って再出発してくれた一方で、60代以上の人は先行きが見えないために気力もなくしています。23あった窯元のうち、2つはもうなくなって21になりましたが、半数がそんな状態です。

 私自身、二本松に住宅を買いました。工房を作れる広さがあるのですが、そこで再出発していいのか、悩んで手がつけられないんです。先行きが見えないことが、何よりも不安です」(半谷氏)

 大堀相馬焼の大きな特徴は3つある。1つは「青ひび」。青い釉薬にひび割れが入った模様だ。2つ目は「走り駒」。相馬藩の神馬が描かれている。そして、「二重焼」。これは明治時代に取り入れられた構造で、いわゆる二重底のようになっている。熱いお茶を入れても外側に熱が伝わりにくいので、寒い冬のかじかんだ手でも持ちやすい。

 


大堀相馬焼。縦に半分に切られたものは「二重焼」の説明用。

 

 ツアー参加者はお土産に大堀相馬焼を買い求めてバスに戻る。次の目的地は福島大学だ。車中で藻谷氏が話す。

「『天の時、地の利、人の和』という言葉があります。米国のように『天の時』でできた国もあれば、日本のように『人の和』でできた国もあると言われますが、本当は、日本は降水と沃土という『地の利』でできた国です。原発事故の一番の問題は、『地の利』に背くこと。土地を本来の使い方ができないようにしてしまった。土地を追われるとはどういうことか、今までのお話の中から少し感じられたのではないかと思います」(藻谷氏)

 バスは国道4号線を北上し続ける。大きく上下動を感じるところがしばしばある。大震災によって生じた凹凸が、交通を妨げるほどではなく、また、幹線道路で交通量があるため、そのままにされているのだ。

 

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著者紹介

藻谷浩介(もたに・こうすけ)

〔株〕日本総合研究所主席研究員

1964年、山口県生まれ。日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)、米国コロンビア大学留学などを経て、現職。2000年頃より地域振興について研究・調査・講演を行なう。10年に刊行した『デフレの正体』(角川新書)がベストセラーとなる。13年に刊行した『里山資本主義』(NHK広島取材班との共著/角川新書)で新書大賞2014を受賞。14年、対話集『しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社)を刊行。

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