2015年06月09日 公開
2023年01月12日 更新
〈1〉からの続き
盛駅で南三陸鉄道を下車して再び大型バスに乗り、大船渡市から陸前高田市へと向かう。ここからは里見容氏も同乗した。里見氏はボランティアとして震災直後の11年4月7日に気仙沼に入り、現在は気仙沼市役所に勤めている。
大船渡湾は奥行きがある形をしており、津波はその両岸をなめるように進んだ。先ほど南三陸鉄道の車窓から見た太平洋セメント大船渡工場は湾奥に位置する。市役所は昭和三陸地震を教訓に高台に移転していたため、行政機能が麻痺することはなかった。
バスは坂道を登り、高台へと向かう。昨年4月末に再開された魚市場を過ぎた辺りから、大船渡湾に養殖の筏が並んでいるのが見渡せた。カキやホタテ、ワカメなどの養殖が盛んなのだ。
養殖の筏が大船渡湾に並ぶ。
車中、里見氏から気仙沼の現状についての話があった。気仙沼でも中心部などでかさ上げ工事を行なっているが、そこには主に産業施設や商業施設が建設される予定で、自主的なものも含めて、住宅は高台移転をするケースが多いそうだ。大槌とは違い、気仙沼には丘陵地が多く、移転先に適した土地がある。また、人口約6万8,000人のうち、今も約1割が仮設住宅に入居している状態で、災害公営住宅への入居は今年1月末に始まったばかり。仮設住宅は耐用年数が2年ほどのため、不具合が生じてきているところも見受けられるとのことだ。
陸前高田市に入ると、4階までが津波で破壊された5階建ての雇用促進住宅が見えてくる。さらに進むと、津波の高さを示すガソリンスタンドの看板がある。
15.1mの高さまで津波が来たことを示す矢印のついたガソリンスタンドの看板。
「昔の陸前高田は低湿地に田んぼが広がる、三陸随一の穀倉地帯でした。幅数百mもあった高田の松原に守られ、明治三陸地震でも昭和三陸地震でも津波の被害をほとんど受けなかった。その後、市街地が田んぼを埋めて広がったのですが、東日本大震災では松原が消滅。市街地はすべて冠水し、大きな被害を出しました。市役所も壊れてしまいました。
陸前高田では10人に1人が亡くなりました。津波が発生したのは春の午後、しかも干潮のときでしたから、もし、寒い冬だったり、みんなが寝ている夜だったり、たまたま満潮のときだったりすれば、さらに多くの方が亡くなっていたでしょう」(藻谷氏)
その先で、空中に組まれた巨大なベストコンベアーが姿を現わした。
巨大なベルトコンベアで山を崩した土を運び、かさ上げ工事を行なっている。
ベルトコンベアに隠れるように、「奇跡の一本松」が見える。
「周囲は見渡す限り広い空地になっていますが、これがすべて市街地でした。津波の直後には壊れた巨大なコンクリート建築物がゴロゴロしていたのですが、全部撤去したのですね。
このベルトコンベアは正面にある山を崩した土を運んでいて、大規模な土地のかさ上げをしています。あまりにシュールな光景で、私も初めて見たときには絶句しました。果たして、このかさ上げした土地の上に住もうという人がいるのか。地盤が固まるには時間もかかりますし、今さらと敬遠する人も多いのでは。
ベルトコンベアの向こうに『奇跡の一本松』が見えますね。枯れてしまったものを、モニュメントとして人工的に残したものです。震災前は、海岸沿い一帯に数万本の松が植わっていました。震災2カ月後に来てみると残っていたのは1本だけ。地元の人もさぞショックだったのでしょう。
市街地の南の山裾にお堂が見えます。あそこには津波が届かず、4月末には桜も咲きました。何かあったときの避難所になるように、先祖が遺した遺産なのです。市街地西側の高台にはもともとニュータウンがあって、震災後は市役所もそちらに再建されています。
私が高台移転を提案したときに念頭にあったのは、この光景です。震災前から人口減少の著しい地域なので、全員が高台に移ることができるのではないかと考えたのです。とくに陸前高田や気仙沼は山が比較的険しくなく、丘陵地帯が多いので、高台移転に適していると思います」(藻谷氏)
陸前高田からさらに南下し、宮城県気仙沼市に入る。今回のツアーで訪れた釜石、大槌、大船渡、陸前高田のいずれよりも人口が多い自治体だ。
更新:11月23日 00:05