2015年10月09日 公開
2016年01月09日 更新
ダスキン時代は常に一定の成果を出し、社内の人間関係も良好だったと振り返る蛭子氏。しかし一方で、「漫画家として食べていきたい」という思いもずっと持ち続けていた。
「上京して間もない頃から、プロを目指して投稿を続けていました。そうこうするうち、漫画雑誌『ガロ』で賞をいただいて、にわかに夢が現実味を帯びてきました」
こうして、1982年、長年務めた会社を退職。かねてからの夢を叶えたとはいえ、安定した仕事を離れることに不安はなかったのだろうか。
「辞めて大丈夫かどうか、綿密に計算しましたよ。当面の貯蓄、退職金、失業保険、今後の収入の見込み。見込みは、連載など、確実性の高いものだけを計算しました。それらと1カ月の生活費を比べて、『これなら生活していける』と判断してから辞めたんです。だから、不安はありませんでした」
蛭子氏の漫画は独特の画風とエキセントリックで不条理なストーリーを持っているが、それを描くときの気分は至って呑気なものだそうだ。
「何を描くか悩んでしまう、ということはありませんね。すごい作品を作ろうなんていっさい思っていません(笑)。ただ、締切りは必ず守ります。指示されたことだけはきっちりやるという仕事のやり方は、会社勤めのときから変わっていません」
熱心なファンもつき、充実した漫画家生活を送っていた87年、再び転機が訪れる。「劇団東京乾電池」のポスターを手がけた縁で舞台への参加を求められて出演。その舞台がきっかけで、テレビ出演という新しい道が拓けたのだ。
「恥ずかしかったんですけど、僕は断わるのが苦手なんですよ。頼まれるがままにドラマに出て、バラエティに出て、としているうちに、漫画のファンが離れていってしまいました。作品のイメージとテレビに映る僕のイメージがあまりにかけ離れていたからだと思います」
ずっとなりたかった漫画家という夢をせっかく叶えたのに、漫画家としてよりもタレントとして世の中に広く認知されるようになっていく。そのことに、蛭子氏は悩まなかったのだろうか。
「テレビに出てもらえる収入が、漫画を描いてもらえる収入の3倍くらい高かったんです。しかも、漫画を描くのはなかなかの重労働。『テレビのほうがラクだ!』と思ったら、すぐに気持ちが切り替わりました。抵抗はなかったですね」
1人で仕事をする漫画家と違い、テレビの仕事では数多くのスタッフや共演者とつきあうことになる。人づきあいが増えれば、それによるストレスも増えたのではないか。
「確かに、僕はずっと1人でやる仕事ばかりをしてきたし、性格的にも1人でいるのが好きです。でも、人が嫌いなわけではないんですよ。
人を嫌うのは、決して愉快な感情ではありません。だから僕は、苦手な相手であっても、ネガティブな感情は絶対に見せないようにしています。誰かに対して『2度と一緒に仕事をしたくない』と思うこともないですね。どんな人とでも、頼まれれば何度でも共演します。内心の苦手意識は我慢します」
我慢はしても、ストレスを溜め込むことはない、と蛭子氏。日頃、上司や部下、お客や取引先に対して我慢を重ね、神経を擦り減らしているビジネスマンからすると、ぜひ、その秘訣を聞きたいところだ。
「仕事だと考えているから、我慢してもストレスにならないのではないでしょうか。ビジネスマンの方々も、ビジネスのことを一生懸命にやればいいのだと思います。会社は仕事をする場所であって、人間関係は二の次でしょう。上司が偉そうでも、部下が生意気でも、大した問題ではありません。そんなことよりも、仕事がきちんと進むことのほうが大事だと思っていたら、ラクになりますよ」
更新:11月22日 00:05