2026年07月15日 公開

あなたはワインをどんな基準で選びますか?産地、もしくは知名度、あるいは価格――実はその選択基準こそ、あなたの「思考の癖」を映し出す鏡です。学校や会社で「正解」を探し出す癖がついている人は、ワインにも「正解」を求めがち。しかし、ワインビジネスを展開する今野有子氏は「ワインに正解はない」と語ります。本物のエグゼクティブはどのようにしてワインを選ぶのか。彼らが持つ「正解のない世界での判断基準」をひも解きます。
※本稿は、今野有子著『エグゼクティブはなぜワインにはまるのか?』(クロスメディア・パブリッシング)より一部抜粋・編集したものです。
あなたは、レストランでワインをどうやって選んでいますか?
・価格を見る
・有名な産地を探す
・聞いたことのある名前を探す
誰もが間違えたくないからです。接待で失敗したくない。知識がないと思われたくない。センスがないと思われたくない。だから私たちは、「安心材料」を探します。
・有名産地
・評価点
・有名銘柄
・高価格
こういった評価ポイントはすべて、他人が保証してくれる価値です。その選択は、本当に「あなたの判断」ですか?
あなたが、価格が高いから選び、有名ブランドだから安心し、みんなが知っているから頼んでいる行為を「自分の選択」だと思っているなら、危険です。なぜならそれは、自分の意思決定を他人にアウトソーシングしている状態だからです。これに違和感がなくなっているということは、判断基準を外部に委ねることが習慣になっているからです。
ワイン選びとは、実はあなたの思考の習慣をそのまま映し出します。市場分析をするとき、投資を決めるとき、人材を採用するときなど、様々な意思決定や選択の場面で、
「みんながいいと言っているから」
「前例があるから」
「評価が高いから」
そうやって選んでいませんか?
ワインは、あなたの思考の癖を映す鏡です。グラスの前で思考停止する人は、他の重要な意思決定の場でも無意識に同じことをしています。自分で価値を定義する力を放棄することは、エグゼクティブからもっとも遠い場所に自らを追いやっていることと同じです。
ですが、安心してください。あなたがいま価格や誰かがつけた評価に頼っているとしても、それは能力不足ではありません。それは、今までずっと「正解を探す訓練」を受けてきたことが習慣になっているだけです。学校も、会社も、社会も、常に「正解はひとつ」だと教えてきました。
ワインは、その前提が通用しません。
ワインは同じボトルでも、時間の経過や文脈によって味わいが変わります。そして、飲み手の経験や価値観によって感じ方が変わるのです。正解がひとつではない世界で、あなたはどう判断するのか。これはワインの話ではなく、あなたの知性の話です。
ワインに正解はありません。だからこそ、あなた自身の判断軸が映し出されます。
「ワインに正解はない」と言うと、では何をしてもいいのか、と疑問に思うかもしれません。
私自身、長い間「正解」にとらわれていました。ソムリエ試験の勉強は、正解を覚える訓練の連続です。香りはどんな個性があるか、産地はどこか、熟成の度合いはどうか。私は真面目に勉強し、ソムリエ資格を取ったので、つい「正解」を求めてしまいます。正解にとらわれていることすら、気づいていませんでした。
その、自分の思い込みや前提を揺さぶられた、印象的なエピソードを紹介します。
2019年の秋、シンガポールで活躍する投資家からメールが届きました。
「オイルビジネスをやっているマレーシアの大富豪が、日本に遊びにくるので、ぜひ有子さんに紹介したい。ワインが大好きな方でご自宅には地下セラーを作って何千本もコレクションがある人ですよ」
すぐに快諾し、わくわくしながら案内を待ちました。銀座か六本木あたりの高級店だろうと思っていたら、場所は渋谷の居酒屋です。これはどうしたことかと心配になりました。二次会には高級なワインバーにいくかもしれないし、ホテルのバーにいくかもしれない。私は渋谷の居酒屋には不釣り合いかなと思いながらも、ドレスアップして出かけました。
私が到着すると、案内された個室には投資家と大富豪、そして若い女性が3名先に座っていました。目の前には小皿とビール用のコップ、冷えた瓶ビールに、焼酎の水割りセットがあります。
「ワイン好きだとは聞いていたけど、ワイン会とは聞いていない。今日はビールと焼酎なんだな」
そう思っていると、彼はワイン用の紙バッグを私に手渡しながら、
「あなたはソムリエだと聞きました。これを飲みませんか? マレーシアから飛行機で一緒にきたから、少し疲れてるかもしれませんが」
と言いました。
無造作に渡された袋の中のワインを見て、私は仰天しました。DRCのモンラッシェだったのです。価格は200万円以上です。白ワイン史上、最も高価な一本であり、愛好家が一度は飲んでみたいと憧れる存在です。
何度も言いますが、そこは渋谷の居酒屋です。ワイングラスはありません。瓶ビール用のコップしかない上に、ソムリエナイフもあるとは思えませんでした。私が絶句し、彼を見ると、彼はにこにこと笑いながら、何も言いません。あ、ちゃんと分かってて持ってきてるんだなと理解できました。
私はいつもソムリエナイフを持ち歩いているので、その場で抜栓しました。注がれたのは、ビールグラス。その瞬間、私は完全にパニックの中にいました。
「こんな環境で開けるワインじゃない」
頭の中で、教科書が騒ぎます。女性たちはワインに詳しくなく、この価値がわからないようです。しかし、ここで私がワインについて説明するのは無粋だと判断し、私も淡々とワインを注ぎました。
彼は一口飲むと言いました。
「少し温度を下げたほうがいいかもね」
そして、大きなロックアイスをひとつ、ビールグラスの中に入れたのです。神への冒涜ではないか、と息を飲みました。
「うん、美味しい。有子も入れてみなよ」
私は一瞬一瞬、息をのみましたが、同じようにやってみました。モンラッシェのロック......冒涜の味。ですが、一口飲んで、思いました。さすがだ、と。
彼はもちろんモンラッシェの価値を理解していました。価格も、希少性も、歴史も知っています。ですが、一切語りませんでした。あの場で、モンラッシェを知っていたのは、彼と、一緒に来た投資家、そして私の三人だけでした。それでも彼は、
「これは特別だ」
「いくらすると思う?」
そんな言葉を一度も口にしませんでした。ただ、にこにこと振る舞い、楽しそうに飲んでいました。
無邪気に「赤ワインは飲めないけど、白ワインは好きなんだ」と言っていた20代の女性が二度おかわりをして、モンラッシェは空になりました。
このエピソードをきっかけに、私は自分自身がまだ情報でワインを飲んでいると思い知らされました。彼はワインを崇めず、従属もしていませんでした。最高峰のモンラッシェにふさわしい態度でした。
正解を知らないのは無知です。正解を知り尽くしたうえであえて従わないのは、自由です。
あの夜、彼はワインの権威に従っていませんでした。彼は、その場の文脈と空気を最優先しました。20代の女性たちが緊張せず、美味しいと笑える場をつくること。渋谷の居酒屋というカジュアルな場で、最高の一杯を楽しむこと。
私が味わったのは、モンラッシェではない。彼の価値観でした。
更新:07月15日 00:05