
独立を果たした神田正氏は、日高屋の原点となる「来来軒」を4店舗、売上3億円に成長させる。更なる飛躍を誓い「経営計画発表会」を開催するようになると、第2回でとある感動的な一幕が生まれた。
※本稿は、神田 正 著、中村芳平 構成『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(日本実業出版社)より内容を一部抜粋・編集したものです。
神田は中華料理「来来軒」西川口店の大成功で4店舗連続の成功となり、経営の求心力を高めた。
そして、「京浜東北線の大宮から赤羽までの各駅に『来来軒』を出店、赤い提灯でつなげる」と、銀行でも豪語したり、顧問税理士の堀にも同じようによく話していた。
そんな神田に、堀が勧めたのが、「経営計画発表会」の開催である。
「自分1人でしゃべっているのではなく、従業員や取引先など関係者を集めて年1回、会社を休んで、経営計画発表会を開くのがいいだろう。継続してやれば人が育つ」(堀)
堀は、経営コンサルティングのような仕事が好きでいろいろ助言した。
開催日は丸1日全店休みになるが、神田は「経営計画発表会」を開くことにした。「最初はやり方がわからなかったので、堀先生に式次第(進行表)、講演原稿などをまとめて欲しい」と依頼した。
こうして1983年(昭和58年)2月、『来来軒』がまだ4店舗で年間売上高が約3億円だった頃、大宮のホテルの宴会場を借りて『日高商事 第1回経営計画発表会』を開いた。
これには日高商事の社員とその家族、銀行の担当者、肉や野菜の食材の取引先など30数人を招いた。
神田は次のようなことを語った。
「来年度の経営目標は売上高5億円、2年に1回の駅前出店、従業員の賃上げと幸福の実現を目指す。ラーメン屋だけれど週末は休めて福利厚生のしっかりした会社にする―大まかですが以上のようなことを話しました。
『週末は休めて福利厚生のしっかりした会社にする』と話したら、施設から入社してきた社員の目の色が輝きました。当時、大宮に2店舗、蕨駅西口前に1店舗、西川口駅前に1店舗、合計4店舗だった時のことです。
4店舗のラーメン屋のオヤジが語る経営ビジョンですが、私が自ら語ることで、みんなに本気さが伝わったと思います」(神田)
経営計画発表会で、今も古参社員に語り継がれるのが、1984年(昭和59年)2月、「第2回経営計画発表会」を開催した時のことである。
場所は同じ大宮のホテルだった。前年の10月、日高商事は有限会社を株式会社に改組、「来来軒」5号店となる「来来軒」大宮西口店を開店した。売上高は5億円に迫る勢いだった。
「この時も取引先、銀行などの他に社員の家族を呼びました。私はお袋さん、女房、それに小学生になった長男も招き、40名近くが参集し開催しました。私が壇上に立ってしばらく話していると、お袋が一番前のかぶり席にいて目がバッチリ合っちゃいましてね...。
そうしたら村一番の貧乏家だったことやお袋が、ゴルフ場のキャディや魚の行商もして、寝る間を惜しんで働いて兄妹4人を育ててくれたことを思い出しました。お袋が『頑張れば、大丈夫!』『頑張れば、なんとかなるよ!』と、いつも励ましてくれたこと、また、『お金が全てではないよ』『もったいないという気持ちを忘れずに!』などと教えられたことも思い出しました。
私はお袋の後姿から、人間としての生き方、考え方を学びました。そんなことが走馬灯のようによみがえってきました。お袋の後ろ姿が、中華料理『来来軒』を作り『日高屋』を作ったようなものです。
お袋の『正、頑張れよ!』という声を聞いて、ついこらえきれずに泣き出してしまったんです。このお袋がいたから、今、私がこの壇上に立っていられるんだと思うと、もうこみ上げてきて、大泣き...。もちろんお袋も号泣していました」(神田)
神田はこの第2回の経営計画発表会では、「チェーン展開には工場が必要だ」と宣言、まだ中華料理「来来軒」が大宮西口店までで5店舗しかなかったのに、1984年(昭和59年)に大手製粉メーカーの技術指導を受けて、工場生産体制による合理化を目指し、セントラルキッチンの大宮三橋工場を開設すると話した。実際1984年5月に、味の研究をして料理を開発する小さな工場を作った。
1986年(昭和61年)3月には、麺・餃子を自社生産する中型工場を作った。投資金額は3億円だった(食材供給子会社の株式会社日高食品を設立した)。
このセントラルキッチンが、中華料理「来来軒」のチェーン展開の推進力になった。
更新:07月09日 00:05