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SNSで繰り広げられる承認ゲームから抜け出すには?『庭の話』宇野常寛【書評】

2025年05月30日 公開
2025年06月04日 更新

大村壮太(作家)

現代社会の息苦しさを的確に捉え、アクチュアルな批評を展開し続ける宇野常寛氏。その著作は、読みやすい文体でありながら、常に本質を突く鋭さを持っている。今回取り上げる『庭の話』(講談社)もまた、現代を覆う閉塞感の根源を喝破し、そこからの具体的なオルタナティブを提示しようとする野心的な一冊だ。

私自身、宇野氏の著作には長年親しんできたが、本書は特にその思索の成熟と、現代社会への強い危機感が結実した作品だと感じ入った。

 

サムウェアとエニウェア、そしてプラットフォームの承認ゲーム

庭の話

本書の議論の出発点となるのは、現代社会がsomewhere(どこかでしか生きられない人とanywhere(どこでも生きられる人)」に分断されているという認識だ。後者のanywhereな人々、すなわちグローバルエリート層は、ネオリベラリズムのエンジンを回し、資本主義のゲームを主導する。

一方、somewhereな人々は、その経済ゲームから疎外される代わりに、ポピュリズムに代表される政治のゲームへと傾倒し、そこで自己効力感や承認を求める。この経済と政治の二元的な断絶が、現代社会の基本的な構図であると宇野氏は指摘する。

そして、このsomewhereの人々が参加する政治ゲームを、より歪んだものにしているのが「プラットフォーム資本主義における承認ゲーム」だ。TwitterやFacebookといったSNS上で繰り広げられる「いいね」の奪い合いや、インフルエンサーへの帰依、あるいは炎上への加担といった行為は、インスタントに承認欲求を満たす手段として機能する。

しかしそれは、人間が本来持っていたはずの創造性や、より良い社会を築くためのエネルギーを吸い上げ、矮小化してしまう。この素朴かつ的確な現状認識は、多くの読者が肌で感じているであろう現代の空気感を見事に言語化している。

 

オルタナティブとしての「庭」開かれ、管理された多様性

このようなプラットフォーム資本主義の支配に対するオルタナティブとして、宇野氏が提示するのが「庭」というメタファーである。この「庭」とは、単なる物理的な空間を指すのではない。それは、「外に開かれていて、自然と向き合っていながら人為的な空間」であり、「管理された多様性」を持つ場だ。

宇野氏は、フランスの庭師ジル・クレマンの思想を援用し、外来種のような異質なものの存在を許容しつつも、それが支配的にならないように適度に手を加えることで、豊かな生態系を育むような空間の重要性を説く。

ここで鍵となるのは、従来の「共同体」に対するラディカルな批判だ。宇野氏は、人間の集まりが「共同体」となった瞬間に、そこには力学が生まれ、承認を交換し合うゲームが始まり、結果としてその集まりは機能不全に陥ると断じる。これは、ネオリベラリズム批判の受け皿として安易に「共同体への回帰」を唱える議論とは明確に一線を画す。

むしろ宇野氏が肯定的に捉えるのは、サルトルの言う「コレクティフ」のような、ただ同じ場所に集まっているだけという緩やかな連帯だ。目的は共有せずとも、偶然同じ空間を共有している人々が、互いに過度な干渉をせず、しかし孤独ではない状態。カフェやバスターミナルのような、匿名性と共存性が絶妙なバランスで存在する空間の心地よさを、読者諸氏も経験的に理解できるのではないだろうか。

 

「庭」ですべきこと 制作という希望

では庭で何をするのか。著者の答えは一貫して〈制作〉だ。スラムダンクの"理想の続編"を妄想し同人誌を描き続けた結果プロになった漫画家の逸話は象徴的だ。頭の中のビジョンと現実とのギャップを埋めようと手を動かす瞬間、人は受動的な鑑賞者から能動的な作り手へ変わる。他者の評価軸はかすみ、物との一対一の対話が立ち上がる。動画編集でも、木工でも、レシピでもよい。完成品がバズるかどうかは副次的な問題だ。

では、誰もがすぐ制作に向かえるのか。著者は「道具は揃っているのに人は踏み出さない」という逆説にも触れる。AI が作曲を補助し、3Dプリンタが模型を吐き出す時代でも、大半のユーザーはスクロールに時間を溶かす。

必要なのはスキルではなく衝動、そのスイッチを入れる場として庭が機能する。黙々と作業する他者の存在が、照れを薄め、最初の一手を後押しするのだ。このプロセスこそが、プラットフォーム上のインスタントな承認ゲームから私たちを解放し、より根源的な満足感や幸福感をもたらすのだと宇野氏は説く。

 

現代における共同体批判の意義と、「制作」への問い

本書の白眉は、やはりその徹底した共同体批判にあると私は考える。2000年代以降、新自由主義批判の文脈で語られてきたオルタナティブは、しばしば安易な地域共同体回帰や、小さな仲間内での閉じた関係性の賛美に陥りがちだった。

宮台真司氏が提唱したようなローカルな連帯や、ヨーロッパのスローフード運動なども、ある種のコミュニタリアニズムであり、そこには必ず境界線と、そこから排除される者が生まれる。

「ウルトラマン」の挿話で語られる、異質な者を排除する共同体の残酷さ。宇野氏は、「100円出せばどこでも醤油が買える社会の方が、隣近所に醤油を借りに行く社会よりも良い」と喝破する。この都市的で、個を尊重する感性は、現代を生きる多くの人々の実感と響き合うのではないだろうか。

ただ、最後に一点、本書を読んで私の中に生まれた問いを記しておきたい。それは、宇野氏も自問するように、「では、どうすれば人は制作へと動機づけられるのか」という点だ。

現代は、ゲーム制作も、文章や音楽の創作・発信も、かつてないほど容易になった。AIの助けも借りられる。しかし、それでも多くの人は「制作」へと踏み出さない。この「なぜ作らないのか」という問いは、本書の議論をさらに深める上で、非常に重要な論点となるだろう。

人間が根源的に持つ「つくりたい」という欲求をいかにして解放し、育んでいくか。そのための具体的な環境や条件とは何なのか。この点については、読者それぞれが「庭」というコンセプトを自身の生活の中でどう解釈し、実践していくかという問いにも繋がっていく。

『庭の話』は、プラットフォーム資本主義がもたらす承認ゲームの虚しさに気づきながらも、そこから抜け出す具体的な一歩を踏み出せずにいる私たちにとって、力強い指針を与えてくれる一冊だ。

それは、孤独を愛しつつも他者との緩やかな繋がりを求め、そして何よりも自らの手で何かを「つくる」ことの喜びに目覚めよ、という宇野常寛からの熱い檄なのである。本を閉じたいま、私自身もまた、自らの「庭」で何を生み出せるだろうか、そんな創造的な問いに満たされている。

 

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