
日々、多忙なビジネスパーソン。限られた時間の中で、いかに効率良く知識や教養を身につけるかは、常に頭を悩ませる問題だろう。本連載では、そんな悩みを抱えるビジネスパーソンに、スキル向上に役立つ書籍を厳選してご紹介する。今回は、橘玲著『上級国民/下級国民』(小学館新書)を取り上げる。

日々のビジネスシーンで、漠然とした閉塞感や、努力が必ずしも報われないような不公平感を覚えることはないか。あるいは、世代間や雇用形態によるコミュニケーションの断絶、価値観のズレに直面し、戸惑うこともあるだろう。それらは単なる景気の波や個人の資質の問題ではなく、もっと根深く構造的な問題の表れなのかもしれない。
橘玲の衝撃作『上級国民/下級国民』は、まさに現代日本社会の水面下に形成されつつある、この見えざる階級構造に鋭いメスを入れる一冊である。
本書が提示する「上級/下級」という区分は、単なるレッテル貼りではなく、私たちが生きる社会のリアルな力学、そして自身の立ち位置を理解するための、避けては通れないキーワードとなりつつある。これは、遠いどこかの話ではなく、あなたの職場、あなたのキャリア、そして日本社会の未来を考える上で、極めて重要な視点を提供するものである。
本書の核心は、現代日本において、経済的な豊かさだけでなく、文化資本や社会関係資本、さらには「魅力資源」といった要素まで含んだ、新たな階級とも呼べる分断が生まれているという指摘にある。
では、なぜこのような事態に至ったのか。その根源は、バブル経済が崩壊し、「失われた時代」へと突入した1990年代の構造改革に遡る。
当時、日本経済の再生のためには、産業構造の転換とそれに伴う労働力の移動が不可欠であると盛んに叫ばれた。しかし、現実に起きたのは、既得権益、とりわけ大企業を中心とした正社員、特に中高年層の雇用を守ることを最優先する動きであった。本来であれば痛みと変化を伴うはずの構造改革は骨抜きにされ、結果として、既存の雇用システム、すなわち長期雇用慣行は温存されることになった。
その「しわ寄せ」は、どこに向かったのか。それは、これから社会に出ようとする若い世代であった。企業は新規採用を大幅に抑制し、やむを得ず非正規雇用という形で若者を受け入れるようになった。これが、後に「就職氷河期世代」「ロストジェネレーション」と呼ばれる層を生み出す直接的な原因となったのだ。
つまり、日本社会は、既存の正社員という「既得権益」を守るために、将来世代の機会を犠牲にするという選択をしたのである。
この結果、世代間の断絶は決定的なものとなり、「おっさんと若者」という対立構造が顕在化した。同時に、同じ職場で働きながらも、待遇やキャリアパス、将来への展望において全く異なる「正社員と非正規」という深刻な分断も固定化されていく。
このような状況下では、欧米で議論されるような「同一価値労働・同一賃金」の原則は、日本ではほとんど機能不全に陥らざるを得なかった。これが、平成という時代が日本社会に残した、重い負の遺産である。
そして今、時代は令和へと移り、平成に蒔かれた格差の種は、さらに深刻な形で私たちの目の前に現れようとしている。
まず直面するのが、人口ボリュームゾーンである団塊ジュニア世代の本格的な高齢化だ。彼らが労働市場から退き、非労働人口へと移行していく中で、年金や医療、介護といった社会保障コストは爆発的に増大することが予想される。十分な備えがないまま高齢期を迎える層が増えれば、社会に依存する形で生活せざるを得ない人々、橘の言葉を借りれば「パラサイト化」する人々が増加するリスクも否定できない。
さらに問題を複雑にするのは、彼らだけではなく、十分なキャリア形成や資産形成の機会を得られなかった氷河期世代もまた、高齢化の時期を迎えることである。
つまり、日本社会は、二つの大きな人口集団に対する社会保障という、二重の巨大な負担に直面することになるのだ。先行する団塊世代が引退したとしても、彼らが享受してきた既得権益を前提とした社会システムが容易に変わるとは考えにくい状況の中、これから社会の中核を担う、あるいはすでに担っている世代は、この莫大なコストをどう負担していくのか、という極めて困難な問いを突きつけられている。
本書が描き出す格差は、単に経済的な側面や世代間の問題に留まらない。現代における「上級/下級」の分断は、より多層的で、個人の内面にまで深く食い込む様相を呈している。
橘が注目するのが、「モテ/非モテ」という、一見すると社会構造とは無関係に見える問題である。しかしデータは、学歴と恋愛市場における成功確率(モテ)との間に、無視できない相関関係があることを示唆する。そして、学歴が相対的に低い、あるいは「非モテ」とされる層においては、自己肯定感が低く、精神的な困難を抱え、場合によっては自殺リスクが高まるという、痛ましい現実も浮かび上がらせる。
これは単なる個人の魅力や努力の問題として片付けられるものではない。教育を受ける機会、文化的な体験、家庭環境といった、本人の選択だけではどうにもならない要素によって偏って分配される「魅力資源」の格差が、人生の様々な局面における機会の差、そして精神的なウェルビーイングの差にまで繋がっているのだ。
経済的な豊かさだけでなく、承認され、尊重され、自己を実現する機会までもが偏在する。これこそが、現代の格差が従来の階級問題とは「位相を変えている」と著者が指摘する核心部分である。富の分配だけでなく、尊厳や希望の分配までもが歪んでいる社会、それが現代日本の姿なのかもしれない。
本書の終盤では、さらに踏み込んで、現代社会におけるリベラリズムのあり方にも問いが投げかけられる。特に指摘されるのが、知識人やエリート層における「豊かさとリベラリズムの結託」という現象である。
社会正義や多様性の尊重、ポリティカル・コレクトネスといったリベラルな価値観は、それ自体としては重要である。しかし、時にそれが、社会の底辺で困難な状況に置かれ、「下級国民」としてある種見捨てられた人々の抱える不満や怒り、切実な声を見えにくくしてしまう、という皮肉な側面を持つことを著者は示唆する。
リベラルな言説が、結果的に既存の格差構造を覆い隠し、エリート層の優位性を正当化するイデオロギーとして機能してしまう危険性がある。近年、世界的に見られるポピュリズムの台頭なども、こうした見過ごされてきた層の不満の噴出と無関係ではないだろう。
この新しい階級構造、見えにくい形で進行する分断、そして社会から切り離されつつある人々の存在に真摯に向き合わなければ、私たちは現代社会で起きている様々な問題の本質を見誤り、有効な処方箋を描くことすらできないだろう。
橘玲の『上級国民/下級国民』は、単なる社会分析や時事評論を超えた、現代を生きる私たち一人ひとりに対する鋭い問いかけである。本書を読むことは、心地よい体験ではないかもしれない。しかし、私たちがどのような社会構造の中に置かれ、どのような力学の影響下にあるのかを知るための、極めて重要な「見取り図」を提供する。
この見取り図を手にすることで、日々のビジネスや社会に対する解像度は格段に上がり、これまで見過ごしてきたかもしれない問題の本質に気づかされるはずだ。
目を逸らさずにこの不都合な真実を直視し、自身の立ち位置を自覚すること。それこそが、変化が難しいとされるこの社会において、私たちが未来に向けて踏み出すための、静かだけれども、確かな第一歩となるのではないだろうか。
更新:05月11日 00:05