2025年04月29日 公開
2025年2月、サントリーフィールドエキスパート(株)代表取締役社長に就任した河原浩史氏は、30年以上、酒類や飲料の営業畑を歩んできた生粋のサントリー営業マン。しかしその素顔は意外にも、「弱さが個性」の人間味溢れるリーダーだった。(取材・構成: 村尾信一)
※本稿は、『THE21』2025年5月号より、内容を一部抜粋・再編集したものです。
――社長ご就任おめでとうございます。まずはこれまでの河原さんのキャリアを教えていただけますか?
【河原】ありがとうございます。1989年、新卒でサントリーに入社しました。以来、営業としてキャリアを歩み、2003年、37歳のときに企画課長として初めて部下を持ちました。その後、営業課長、営業部長、支社長、サントリーフーズ営業本部長を経て、現在に至ります。
――順調にステップアップされたキャリアだとお見受けしますが。
【河原】ひとえに上司や部下に恵まれたおかげです。ただ決して「順調に」ではなく、理想と現実とのギャップに苦しむ時期もあり、挫折や苦労の多い会社員人生でもありました。
――それは少々意外です。ところで、入社された年はまさにバブルの絶頂期。当時の営業マンと言えば、体育会系で押しの強いイメージがありますが、河原さんもそんなタイプの営業マンだったのですか?
【河原】いえ、どちらかと言うと押しが弱くて、根が真面目だったので、営業には不向きだと思っていました。それが営業部に配属されたので戸惑いましたね。現に先輩たちは、押しが強く勢いがあって、さらには芸もできて笑わせてという世界。さすがに怯みました。そんな先輩たちを見て、「自分はこの世界ではとてもやっていけないな」と思ったものです。
それでも、少しずつ仕事に自信が持てるようになり、結果的に30年以上営業を続けました。配属当時の心境からすると考えられません。人生、どう転ぶかわからないものです。
――営業のリーダーとして、長くキャリアを歩まれましたが、ご自身の強みとは何だったのでしょうか?
【河原】大学時代に、ある方から教えていただいた言葉に、「どんな仕事も姿勢が大事」というものがあります。
営業としてのキャリアをスタートさせた当時、手段を選ばず結果を出しているスタンドプレイヤーが評価されていました。しかし私は、そんな姿を見て何かが違うと思ったんです。目先の売上を作っているだけで得意先のためにはなっていないと。
そんなとき私は、「姿勢が大事」の言葉を何度も口ずさんだものです。まさに私を成長させてくれた言葉だったと思います。
――河原さんが考える、営業における「正しい姿勢」とは?
【河原】得意先に媚びたりゴマを擂ったり、お願いばかりすることが、営業の姿勢だとは思いません。双方の関係は、互いに利がある「50:50」でないといけないはずです。私は、目先の売上を作るのではなく、得意先の課題解決につながる提案を実現して、信頼関係が築かれていくことを目指したいと思いました。
――当時のイケイケだった時代背景を考えると、その姿勢を貫くのは大変だったのでは?
【河原】当時の上司からは「お前の営業は甘い」「もっと早く売上を作れ」などと厳しく叱責されました。ですが、そこはまったくぶれなかったですね。自分が正しいと思った営業姿勢は絶対に崩しませんでした。
物腰は柔らかいのに、そんな姿勢だった私を見ていた同僚や部下からは「マイルド頑固」だと言われました(笑)。ある意味、褒め言葉だと思っていますよ。
――課長時代で特に印象に残っていることはありますか?
【河原】課長時代には、大きな挫折を味わいました。37歳で営業職から離れて企画部の課長になって、そこで見事に鼻をへし折られたんです。それまでは自分の営業姿勢を貫いて成果を出し、自信も深めていました。またそれを評価されての課長昇進だったと思います。
ところが企画部というのは、酒類事業全体の推進、工場の閉鎖や新会社の設立などを検討して、格付け機関にプレゼンするという、まったく未知の仕事でした。営業しかやってこなかった私は何もできず、無力感を味わうばかり。「これも勉強だ」と気楽に考えれば良かったのですが、根が真面目な私は自分を追い込んでしまったんです。
精神的に参ってしまい、朝も新聞が読めないくらい思い詰め、胃も痛くなり、ついには上司に「会社を辞めたい」と告げるところまでいきました。幸い組織再編で営業に戻れたのですが、このとき、思い知った自分の弱さや痛みは強烈な挫折経験になりました。
――大変な経験をされたのですね。その経験を糧に、営業に戻ってから快進撃が?
【河原】それがそうもいきませんでした。「営業のことはわかっている」という過信と真面目な性格が災いして、部下に完璧を求めすぎてしまったんです。いわゆる「~ねばならない課長」です。
部下に何度も駄目出ししたり、資料を作り直させたり......。私のやり方に素直に従ってくれる部下もいれば、反発してくる部下もいました。夜になるとそのことがフラッシュバックして、「あのとき、部下にこんなこと言われたな」と思い出して落ち込んだりしました。
――精神的な負担が増すばかりですね。
【河原】ええ、この企画課長から営業課長の頃が私の会社員人生のターニングポイントでした。自分の弱さを突き付けられ、心の痛みを知り、それで反省の連続。この頃、日記をつけて、毎日、自分の心に問いかけるようにもなりました。そして、その後は営業課長としても実績を積むことができるようになったんです。
――それからは営業課長として経験を積まれて、順風満帆に?
【河原】いえ、自分ではうまく課長職の任を務めていると思っていたのですが、ある日、当時の上司(部長)から「おまえは上からも下からも頼られるのは良いが、そのやり方は部長になったら通用しないぞ」と言われました。これにはカチンときましたね。
おそらく課長である私がプレイヤーとして動きすぎていることを指摘されたんだと思います。当時の私は、部下が休んでもすぐにその仕事をフォローしたり、部長に対しては現場に精通した課長としてレポートしていました。上からも下からも頼られていて、私自身もそういう存在であることに居心地の良さを感じていたんです。きっとそのことを見透かされたんでしょうね。
指摘されて以来、私は「課長は一歩下がって、部下をスターにすることが役割なんだ」と考えるようになりました。その後、部長になってから、当時の上司から指摘されたことの意味がよくわかるようになりました。部下の仕事に手を出して、奪ってはいけませんよね。
――部長時代のご経験で思い出されることはありますか?
【河原】2011年1月、東北支社の広域営業部長として仙台に赴任しました。ところが、2カ月後に東日本大震災が起き、営業どころではなくなってしまいます。
当時、部下たちからは「福島原発の影響で家族が心配なので、自宅待機させてほしい」や「こういうときこそ得意先を回って本社に報告しよう」など、様々な声が挙がりました。私は悩みました。こんなとき、部の長たる者は何をすべきかと。
――リーダーとしては難しい局面です。
【河原】悩みぬいた末、私の頭はふっと軽くなりました。「有事の際に、通常の営業活動なんてできないし、正解なんて誰にもわからない。ならば難しく考えるのはやめて自分らしくやろう」と開き直れたんです。みんな不安な中でも一生懸命努力していました。ですから、とにかく一人ひとりの部下と向き合って、コミュニケーションを頻繁に取ろうと考えたんです。
――部下との関わりを通じて、新たな気づきはありましたか?
【河原】震災のショックのためか、結果を出せないことが続いている部下もいましたが、「心の状態によって、本来の実力が発揮できないタイミングもある」と、かつての自分と重ね合わせて考えるようになりましたね。
部下との対話では、こちらから否定的な言葉は一切使わず、まず部下の話を聞いて、理解しようと努めました。先に相手を理解すれば、それが自分を理解してもらうことにつながります。
やがて部下たちからは「河原さんは公平だ」と言ってもらえるようになりました。そうした東北の仲間たちと部署を超えて一体となって、当時のサントリー東北支社のビールシェアを上げることができたのは、嬉しいことでした。
――河原さんの誠実なお人柄が感じられるエピソードです。最後に、今リーダーのあり方に悩みを抱いている方々にメッセージをいただけますか?
【河原】私も色々と苦労はありましたが、なんとか乗り越えることができました。
当時、「お前は優しすぎる。もっと厳しい上司を演じろ」と言われましたが、叱責によって緊張感を作るリーダーの時代は終わりました。スタンドプレイや心の折れないタフな人が評価される時代でもありません。
さらに言うと、部下の多様性や心理的安全性を尊重しなければならない時代です。
リーダーとしての日々は、必ず人間としての成長につながるもの。あなたはあなたの、リーダーのあり様を見つけてください。
【河原浩史(かわはら・ひろし)】
サントリーフィールドエキスパート(株)代表取締役社長。1965年生まれ。89年、神戸大学卒業。同年、サントリー(株)に入社し、神戸支店に配属。広域営業本部、酒類事業本部企画部、近畿圏支社広域営業部、東北支社広域営業部、近畿圏支社、広域営業本部等の責任者を歴任する。その後、サントリーフーズ(株)取締役常務執行役員広域営業本部長を経て、25年1月より現職。
更新:05月03日 00:05