2025年01月08日 公開
2026年01月20日 更新

美術教師の末永幸歩です。このコラムでは、アート作品に向き合ったり、小さな子どもがみつめる世界に想いを馳せてみることで、物事を異なる角度からみつめ直し、自分だけの答えをつくる「アート思考」をしてゆきます。本稿ではアンリ・マティスの『赤いアトリエ』についてご紹介します。
※本稿は、『THE21』2024年4月号連載「ビジネスパーソンのためのアート思考トレーニング」より、内容を一部抜粋・再編集したものです。
20世紀を代表する画家、アンリ・マティスによる『赤いアトリエ』という作品があります。実際のアトリエ風景が描かれているにもかかわらず、その3分の2以上が真っ赤に塗り込められた、異色の作品です。
本来ならばアトリエの壁に掛かっているはずの絵画や、テーブルに置いてあるであろう植物やグラスは、まるで左右上下のない無重力空間を浮遊しているかのようにも見えます。
まだ抽象画も誕生していなかった当時、色彩は目に映る通りに世界を描くための「手段」として使われるものでした。例えば、白いテーブルを描くのであれば白い色を用いる、という具合にです。
しかし、『赤いアトリエ』は、テーブルも床も壁も、非現実的な赤一色で、奥行きのない平面的なベタ塗りで描かれています。それまでマティスの作品を評価してきたコレクターからでさえ、「これは要らない」と買い取りを断られたほどの問題作なのです。
『赤いアトリエ』が評価され始めたのは、描かれてから約40年も後のことでした。今ではマティスは「20世紀のアートを切り拓いたアーティスト」と位置づけられています。
マティスは、それまでのアートが暗黙のうちに色彩に課していた「現実の世界の色を説明する」という役目を放免し、色彩を独立したものとして存在させたのです。
マティスはどのようにして常識を覆し、歴史に刻まれる作品を生み出したのでしょうか。
従来のアートに対して大きな疑問を抱き、新しいあり方を主張する、強い信念を持った画家の姿が思い浮かびます。しかし、彼のアトリエにやってきたジャーナリストに『赤いアトリエ』について尋ねられた際、マティスによる答えは意外なものでした。
「自分でもこの絵のことがわからないんだ。何故このように描いたのか、自分がこの絵で何をしたのかがわからないんだ」
「画面を真っ赤に塗る」というマティスの決断は、従来のアートに対する問題提起や、「アートを変革させよう」という強い意志によるものではないのです。
それはきっと、描きかけのキャンバスに対峙したとき心にふと灯った「これを真っ赤に塗りつぶしたらどうなるだろう?」という、「小さな興味」がもたらした行為であったのではないかと思われます。
その時々に心に灯る「小さな興味」に従った試行錯誤が、結果的に、マティス自身に「大きな問い」をもたらしたり、新たなアートの可能性を切り拓いたりすることにつながったのではないでしょうか。
マティスの話から転じますが、気持ちの良い天気の日曜日、3歳半の娘と自転車で公園に行くことにしました。玄関のドアを開け、目と鼻の先にある自転車置場に向かおうとしたとき、娘は足元に何かを見つけました。
水道栓の四角い蓋に、太陽のように見える水道局のマークが刻まれていました。いくつも並んだ蓋の上に1つずつ順に乗りながら、「おひさま!」と指でなぞっていきます。せっかくの休日、公園で娘を楽しませたいと思っていた私は「もう早く行くよ!」とヤキモキして言いました。
ちょうどその頃、私はこの記事のために、アンリ・マティスの「小さな興味」について考えを巡らせていました。いっこうに急ごうとしない娘を待ちながら、そのことが頭をよぎりました。
水道栓の蓋に「おひさま」を発見している今こそ、娘が自ら目の前のものに興味を抱き、楽しんでいる、まさにその瞬間なのだと思ったのです。
一方で私は、「公園」というゴールに早く到達しなければということに気をとられ、それが達成されるまではできるだけよそ見をしないようにしていました。その結果、目の前のものに目を向け興味を抱いたり、今この瞬間に楽しみを見出したりすることができなくなっていたようです。
アンリ・マティスの話に戻ります。
マティスが『赤いアトリエ』を描いていたとき、彼自身、自分がどこに向かっているのかを明確に把握してはいませんでした。それでも、何らかの「小さな興味」が芽生えていたからこそ、赤い絵筆を勇敢に振るうことができたのだと考えられます。
それは、暗闇の中にふと浮かんでは消える頼りない灯火だけを頼りに、その明かりに導かれ暗中模索するような感覚かもしれません。
どこに向かっているのかわからない、それが何につながるのかもわからない。それでも、今この瞬間の興味に従う──『赤いアトリエ』がアートを一変させてしまったように、この連続こそが真に新しいものを生み出すための秘訣なのではないでしょうか。
【末永幸歩(すえなが・ゆきほ)】
美術教師/アーティスト。武蔵野美術大学造形学部卒業、東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。アートを通して「ものの見方を広げる」ことに力点を置いたユニークな授業を、都内の中学校や高等学校で展開してきた。子どもの創造性を育むワークショップ、大人向けアート思考セミナーなど、アートに関する活動を年間100回以上行なう。プライベートでは4歳児の子育て中。著書に22万部突破のベストセラーとなった『13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社)がある。
更新:01月23日 00:05