2023年03月14日 公開
2023年04月07日 更新
世の人の多くが「差別はいけない」と思っているのに、むしろ排外的な主張や分断が目立つ現代社会。文筆家の綿野恵太氏は、ただ漠然と「差別はダメ」「ハラスメントはダメ」と考えるのでなく、いっこうに社会が前に進まない現状とその原因を正しく認識するべきだと語る。
※本稿は、『THE21』2022年12月号掲載記事「教養としての『ポリティカル・コレクトネス』」より内容を、一部編集したものです
現代では「差別をしてはいけない」というのは、至極当たり前のことになった。入学や就職に際して、性別や人種を理由に不当な差別をしてはいけないし、特定の人種や国籍の人を対象としたヘイトスピーチをするのもいけない。もちろん差別につながるハラスメントもご法度だ。
しかし世の中には、こうした「差別はいけない」という共通認識に反発する人もいる。それどころか、近年そういう人が、日増しに増えているように思えてならない。
国際的に見ても、欧米各国で極右政党が台頭し、排外主義が力をつけつつあるのが現実だ。そして、こうした風潮には理由がある──僕はそう考えている。
大前提として、この記事は差別を擁護するものではまったくない。しかし、いっこうに社会から差別がなくならず、差別的な言動や分断が目につくようになった現実には、向き合う必要があるはずだ。
ただ「差別はいけない」というばかりでは、何も前に進まない。社会を本当により良いものに変えるために、まず現状認識をアップデートしよう。それがこの記事の目的だ。
「ポリティカル・コレクトネス(通称:ポリコレ)」という言葉をご存じだろうか。ドナルド・トランプが米大統領に選出された2016年、多くのメディアが「ポリコレに反発した人々が、トランプ氏を押し上げた」と、この言葉を多用した。直訳すれば「政治的正しさ」だろうか。
しかし、語感の軽さに反してこの言葉の意味は複雑だ。まずは歴史的な視点から「ポリコレ」の用法がどのように変わってきたかを見てみよう。
この言葉は、元々「古典的な左翼運動を皮肉る言葉」として、70年代頃にアメリカ新左翼の間に生まれた。そして冷戦終結後の90年代に入ると、今度は反差別運動や台頭してきた「多文化主義」を、アメリカの保守派が批判する際の言葉として使われるようになった。
今でも「ポリコレ」という言葉は、反差別的な言説や運動に対し、それに反発する側が投げかける言葉だ。その点は変わっていない。しかしその内実は、90年代と今とで、かなり違ってきている。
更新:11月21日 00:05