プロ入り以来、密かに抱いていた目標が「40歳までショートでプレーする」ことでした。ショートは守る範囲も広く、責任も大きい。幼少期から「一番うまい選手のポジション」だと思っていました。
ただ、一度は不動の地位を確立しても、キャリア後半には他ポジションに配置転換されてしまう、ということは珍しくありません。ショートでプレーし続けるには技術と体力双方の維持が肝でした。
しかし、年単位での体力維持にはトレーニングの継続が不可欠な一方、目先の試合で結果を出すには入念な休息が必須。両者はある意味、トレードオフのものです。
双方を両立させるために導き出した最適解が、日々「これだけは」というノルマをしっかり定め、キツくてもそれを確実にこなしながら、とにかく試合に出続けることでした。
毎年立てていた「全試合、フルイニングの出場」という目標に向けて着実な準備と鍛錬を重ねた結果が、1939試合連続出場をはじめとする各種の記録になってくれたのだと思っています。
そして出場にこだわったもう一つの大きな理由は「怖かったから」です。私には、飛び抜けたパワーやスピードはありません。客観的に見て、総合力や安定感で勝負しなくてはならない選手です。
そんな私がもし1日でも欠場し、代わりに秘めた才能を持つ若手が出たら──そう思うと、どんな状況でも「出場する」しかなかった。首脳陣に「鳥谷を出さない」という選択肢を与えたくなかったんです。
顔への死球で鼻を骨折した翌日、特製のフェイスガードを付けて打席に立ったこともありました。そのせいか「強靭なメンタルの秘訣は?」と聞かれたりしますが、正直痛かったし、休みたかったですよ。でも休みたくても、出るしかなかった。
当時の私を動かしていたのは、そうした切迫感でした。試合前の練習で「これなら、痛いけどマシだ」などと身体の動かし方を微調整すれば、案外問題なくプレーできてしまうんです。
もちろん、チームの勝利や優勝も、選手なら私を含め誰もが望むこと。しかし、プロでは成績を残さなければチームに残れません。少なくとも20代のうちは、まず成績を残してレギュラーに定着し、不動の地位を獲得することが第一目標でした。
逆に、それを達成すれば「チーム」を優先することもできるようになります。30代を過ぎると、私の中でも次第にその比重が増し、年々チームの勝利や後輩へのアドバイスなどに意識が向いていきました。
そしてその最たるものが「チームのために身を引く」ことなのだと思います。2020年、私は阪神タイガースから千葉ロッテマリーンズに移籍し、翌年7月にプロ生活で初めての「二軍落ち」を経験しました。
シーズン中に一軍に上がれるかも不透明な若者の情熱や葛藤、ときに挫折。若手と一緒に泥臭く練習する新鮮さ。そこにはこれまで知ることのできなかった世界が待っていました。
そして、その経験が私に引退を決意させました。直接のきっかけは「育成選手」との交流です。育成選手は、二軍でのアピールで支配下(一軍出場できる選手)の枠を勝ち取らなければなりません。
そのために、二軍で出し惜しみなしの全力プレーを繰り返し、また支配下登録の期限日に彼らが涙を呑む姿を目の当たりにして、胸の奥に「私の分の支配下枠は、彼らに与えられるべきじゃないか」という思いが湧いてしまって。
身体的にはまだ現役でできる自信もありましたが、そういう思いが出た時点でもう「潮時」なのかなと悟り、その年(2021年)限りで引退。ちょうど、目標にしていた「40歳」のシーズンでもありました。
更新:11月23日 00:05