2021年07月15日 公開
20代でマイクロソフト草創期のビル・ゲイツ氏と一緒に成功をつかみ、30代は創業したアスキーを史上最年少で上場させた西和彦氏。一方でどん底も味わった。そのすべての経験が、65歳の今につながっているという。(取材・構成:長谷川敦)
※本稿は、『THE21』2021年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
「a blessing in disguise」という言葉があります。これは「形を変えた神の祝福」といった意味です。
ある出来事の渦中にいるときは、つらくて最悪だと感じていたとしても、時が経って振り返ってみると、「あのときの経験があったから、今の自分があるんだな。あの苦しい日々は形を変えた神の祝福だったんだ」とわかることがあります。僕は、どんな経験も、人生のプラスにすることができると考えています。
僕の人生には、これまで、29歳のとき、44歳のとき、65歳(ちょうど今です)のときの3回の転機がありました。このうち最初の2回の転機は、それはそれはつらかった。
僕は学生時代に、知人と一緒にアスキーという会社を立ち上げました。出版事業やソフトウェア事業を手がけ、軌道に乗り始めていた頃に、まだマイクロソフトを創業したばかりのビル・ゲイツと出会います。
米国のコンピュータ専門誌に、彼らがインテル「8080」用のBASICインタープリターを開発したという記事が載っていたのを読んで、「このBASICを使えば、自分が理想とするコンピュータを作ることができる」と猛烈に興味を抱き、連絡をしたのです。
ビルとはすぐに意気投合。アスキー・マイクロソフトを設立し、日本のメーカーにマイクロソフトBASICの売り込みを開始すると同時に、マイクロソフト本社でも出向という形で働き始めました。アスキー本体の経営は共同経営者に任せて、僕はマイクロソフトとの仕事にのめり込みました。
僕らは、のちのマイクロソフト帝国建設の礎石となった「MS-DOS」の開発にも成功します。僕自身も売上に多大な貢献をしたことで、マイクロソフトの中であっという間に出世を遂げ、26歳でボードメンバーになりました。
当時、ボードメンバーは、ビルと、ビルの共同創業者のポール・アレンと、僕の3人だけでした。
しかし、29歳のとき、ビルとの訣別のときが訪れます。半導体事業への参入を強く主張する僕と否定的なビルとの間で溝が深まり、ある日、こう告げられたのです。「マイクロソフトとアスキーの契約は更新しない。君も辞めてくれ」と。
ショックでした。何しろ僕とビルは、マスコミから「二卵性双生児」と書かれたこともあるぐらいにお互いに強く引き合っていたから。
ビルとは今では仲直りしていますが、5年間、絶交状態が続きました。
マイクロソフトを去り、アスキーに戻った僕は、「資料室専任勤務の副社長」という休養期間を挟んで、31歳でアスキーの社長に就任しました。ビルへの対抗意識もあって、僕は事業拡大に邁進します。33歳のときにアスキーは店頭公開し、僕は当時日本史上最年少で上場企業の社長になりました。
しかし、巨額の資金を調達して事業拡大に走りすぎた結果、やがてアスキーは銀行管理下に陥ります。僕は銀行の指導のもと、リストラに取り組まざるを得なくなりました。さらには、出資をしてくれていたCSKの判断により、僕は社長を退任することになり、最後にはすべての役職から降りることになりました。
これが44歳のとき。2回目の転機も、なかなか過酷でした。
その後は、縁あって、大学に籍を置くことになります。マサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボラトリーでは、様々なユニークなアイデアを持った学生が、研究に勤しみながら、起業していくまでのプロセスを、客員教授としてサポートしました。
また、尚美学園では、短大から4年制大学への改組に携わったり、新学科の設立に関わったりして、大学運営の知見を身につけました。
そして、60歳で東京大学大学院IoTメディアラボラトリーのディレクターに就任。MITのときと同じように、IoTに関して様々な夢を抱いている学生が、それを形にしていくまでのサポートをしてきました。
学生は手をかければちゃんと育つものです。彼らが社会で活躍する姿を見るときほど、嬉しいことはありません。そこが教育の面白いところです。
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更新:11月24日 00:05