2019年09月11日 公開
しばらくすると、新しい商品を開発するためには、もっと知識を身につけなければならないと思うようになりました。そこで、物理化学の勉強をするために東京理科大学に行かせてほしいと言ったのですが、上司に反対されました。それでも行きたかったので、廊下でたまたま社長に会ったときに声をかけ、直談判をして、OKをもらいました。
東京理科大学では界面化学の研究をしたのですが、そこでついた先生にも、「君は研究者に向いている。ぜひ博士号を取りなさい」と言われました。私はなんとなく、博士というと英語ができるイメージがあったので、米国で博士号を取りたいと思い、調べてもらったのですが、米国の留学先に空きが見つかりませんでした。ドイツにならあると言われて、「そこでの研究は英語でするのですか?」と聞くと、「そうだ」と言うので、ドイツへの留学を決めました。
その際、私は会社を辞めることにしました。会社から「話が違うじゃないか」と言われましたが、逃げ道を断っておきたかったのです。
途中、出産のために一時帰国をしましたが、無事にドイツで博士号を取ったあとは、家族のいる日本に戻りました。英語もドイツ語もできるようになっていましたが、仕事はなく、半年間、主婦として過ごしました。
ただ、学会には出席していて、そこで出会った方にヘッドハントされ、横浜国立大学でポスドクとして研究をすることになりました。
ポスドクの任期は3年が上限です。その上限を迎えたら、どうするか。もともと外科医になりたかった私は、医学の勉強をしようと思い立ちました。博士号を取ったといえ、医学については知識ゼロです。そこで、聖マリアンナ医科大学の研究室の非正規職員の求人を見つけて、そこに応募しました。正規職員ではないので、意外に簡単に採用していただけました。それから、実は博士号を持っていて、英語の論文を読んだり書いたりもできるということがわかると、自分のテーマを持たせてもらえるようになりました。
そこから、気がついたら助手になり、准教授になっていましたね(笑)。その研究室では分子生物学の研究をしていたのですが、物理化学の研究をして、物理学者の視点を持っていた私から見ると、分子生物学者の視野は意外にも狭く感じ、違う側面から現象を観察できたことが、成果を上げられた大きな要因だったと思います。
皮膚から薬を投与するDDS研究は、多くの研究者は注目していませんでした。皮膚の病気は生死に関わるものではないので、軽視されていたのでしょう。だからこそ、私は目をつけました。
当社の共同創業者になる五十嵐理慧先生や研究員と一緒に、同じ大学の解剖学の先生に電話をしてアポを取り、皮膚の構造について教えてもらうところから始めましたね。細胞の染色の仕方も解剖学の先生に教えていただきました。
2003年に、大型研究費をいただける、JST(科学技術振興機構)の「プレベンチャー事業」に採択されたのも、「レチノイン酸ナノ粒子による皮膚再生事業」という、皮膚科学の研究です。
プレベンチャー事業というのは、その名の通り、3年間の研究が終わったら、その成果をもとにベンチャー企業を立ち上げることが前提となっています。形ばかりの起業をして、すぐに畳んでしまう人もいるのですが、私は、国民の税金をいただく以上、きちんとした会社を作って、人の役に立つ事業を展開したいと思いました。そのために、ビジネススクールにも通いました。そうして06年に設立したのが、当社です。
事業としては、皮膚から薬を投与する技術を活かして、皮膚に塗る美容商材を考えました。美容の市場はこれからますます広がるだろうと考えたからです。そこで、レチノイン酸によるシミの治療法を開発された東京大学美容形成外科(当時)の吉村浩太郎先生にも話を聞きに行ったりして、レチノイン酸の研究だけでなく、美容に関する知識も深めました。そして、皮膚から効率的に薬剤の浸透を促す素材である「NANOCUBE®」という技術を、06年に化粧品原料として開発しました。
これをTBCグループ〔株〕に採用していただき、OEM先の紹介もしていただきました。そして07年に、自社ブランドである初のスキンケア化粧品「MARIANNA(マリアンナ)」を発売しました。
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子供のアトピーから「皮膚のバリア」を作る商品を開発 >
更新:11月24日 00:05