2018年12月16日 公開
2023年03月14日 更新
働き方の自由度が高まった結果、増殖した「キャリア迷子」のビジネスパーソン。そんな方に向け、Yahoo! アカデミアで教鞭を執る伊藤羊一氏が「自身の力でキャリアをデザインする生き方」をアドバイスする本連載。「目の前の仕事に120%打ちこむことで、次のキャリアを切り開け」というメッセージをベースに、第2回は、周囲を味方につける働き方についてうかがった。
今でこそ明確な目標ができ、「人は変われる」という信念を持っている私ですが、20代前半はひどいものでした。
以下のグラフをご覧ください。これは、私がライフラインチャートと呼んでいるもので、時間を横軸、幸福度を縦軸にとり、生まれてから現在までの幸福度の変化を表しています。
20代前半はどん底です。
「今の仕事にやりがいを感じられない」とかいった不満ではなく、そもそも「働く意味がわからない」。銀行に就職したものの、もちろん会社には行きたくない。先輩とどう接すればいいのかもわからない。同期の盛り上がりにもついていけない。当然、仕事はできません。頭が良くてコミュニケーション力も高い同期と比べ、どんどん自信を失くしていきました。だから、ますます人と話すのが怖くなる。
でも、心のどこかでは、「俺はまだ本気を出してないだけ」と思って、斜に構えていました。
ついにそれが「爆発」したのは、26歳のとき。取引先へ訪問中に、吐き気に襲われてトイレに立て籠もってしまったのです。
土日になると元気になるのですが、月曜日になると吐き気がして出社できない。こんな状態が数週間続きました。
当然、今だったらうつ病と診断され、休職するでしょう。でも、当時はまだメンタルヘルスという考え方が浸透していませんでしたし、自分でもサボリ病なのだと思っていました。
ただ、時が経つと、「これ以上休職して社会との接点がなくなるのはマズい」と焦り始め、毎朝吐きながら出社しました。こんな調子で仕事をしていましたが、うつ状態を抜ける転機は意外と早く訪れました。
会社に行くと、なんだかんだと人と接し、会話することになります。すると、先輩や同期が「飲みに行こうよ」「これ教えてやるよ」といった具合にかまってくれました。人と話すことで救われたのです。これが、立ち直るための土台になりました。
さらに、仕事での成功が「うつヌケ」のきっかけになりました。それは、担当していたマンションデベロッパーの案件です。
バブル崩壊後、マンション開発が軒並みストップしている中、その会社は復活を目指し、銀行へ融資の依頼をしていたのです。
そこで、経理部長から「あなたしかいない」と頼られれば、意気に感じないわけがありません。とはいえ、私はバリバリ仕事ができる状態ではありません。
上司や先輩に相談したところ、周りの人たちが手を差し伸べてくれました。「これを調べてみろ」「この件はあの人に聞いてみろ」「こうやって考えるんだ」と。こうした助けがあって、なんとか仕事を進めることができました。
こうなるともうやるしかありません。狂ったように勉強をし、情報を集めていきました。でも、「このマンションがいかに売れるか」を説得しようにも、それを証明できるフレームワークを知りません。そこで、自分で理論を生み出すことにしました。
まず、アパート・マンションの情報誌を買ってきて、新築マンションのデータを片っ端から集めて分析しました。すると、都心からの距離と最寄り駅からの距離が、マンションの平米あたりの値段にどう影響を与えるのか、という計算式を自分なりに導くことができた。この数式によると、今回の物件はべらぼうに割安だという結論が得られた。「これはいける」と確信しました。
上司が奔走してくれたこともあり、この融資案件は成立し、バブル崩壊後のマンション新規融資案件としては、全国で一番乗り。第6次マンションブームのきっかけになったとも言われるほどでした。
社長や経理部長と「よかった、よかった」と言って抱き合いました。やる気ゼロの不良社員だった私が、「仕事って、案外悪いものじゃないな」と思えたのはこのときです。
それまでの私は、必要以上に「仕事恐怖症」でした。その私が、仕事に助けられた。目の前の仕事を一生懸命やれば仕事も職場の人も怖くない。むしろ、世の中とのつながりは仕事を通じてこそ得られるんだ……ということを感じたのです。
その後、頭取に直訴メールを送って左遷されたり、会社に反抗して金髪にしたこともありましたが、今でも銀行時代の上司や同僚には大変感謝しています。
30代になり、文具・オフィス家具メーカーのプラスへ転職しました。金融からメーカーへと、違う業種へ転職したので、培ってきたスキルは通用しません。プラスでは、物流部門の部長として、筋肉質で効率的な物流の達成を目指していました。
そこで私は、張り切って物流の新システム開発・導入に着手するのですが、そこから大失敗の日々が始まりました。新システムが、うまく働かないのです。
毎週木曜日の晩になると、物流センターのシステムを、現行から開発中の新システムに切り替える。金曜日に実際に動かして試してみるためです。しかし、その日の夕方には、必ず不具合が出る。「またおかしくなっているぞ!」と現場から悲鳴と怒声が上がり、慌てて現行システムに戻す。土日は新システム実験で出た不具合の収拾に追われる。
こんな日々が、3カ月続きました。現場のスタッフたちは、怒り心頭です。新しい部長が毎週末に現場を振り回すわけですから当然でしょう。物流センター長には毎週怒られ、しまいには「厄介を起こすだけだからセンターに来てくれるな」と言われるような有様でした。
「よく心が折れなかったね」と言われるのですが、正直に言うと、当時の私はとにかく未熟で、辞める決断さえもできなかった。「なんで、新システム導入なんて言っちゃったんだろう……。3カ月前に戻りたい」と後悔しつつも、撤退する選択肢がない。
ただ、そのことが結果的に私を救ってくれました。
物流センターの業務を担当していたグループ会社の人たちは、当初、私を敵視していました。ろくに相談もせず新システムを作ったからです。そのため、システムがうまく動かず、私が四方八方から叩かれても、「潰れればいい」とみんな思っていたそうだ。しかし、ぶざまな失敗を繰り返し、ひたすら失敗を詫びながらも、逃げない私を見るうちに、「伊藤をあのまま潰していいのか」という話になったと、後から聞きました。
すると、敵対的だったグループ会社のある部長が、こっそりと助力を申し出てくれました。個人用のアドレスからメールが届き、「新システムのデータをもらえないか」と書いてありました。システムをうまく動かす心当たりがある、というのです。
まさに救いの船でした。現場を知り尽くしたスタッフの協力を得ながら実験を繰り返すことで、新システムは2カ月ほどで安定し、コスト削減も実現できました。大逆転です。
トラブルが起きたとき、リーダーが現場にいなければ、メンバーは文句を言えず、わだかまりを抱えたまま働くことになります。その点、私は失敗続きでも、とりあえずそこにいた。怒りの矛先を向けられ、いつも謝って回るリーダーでした。そんなぶざまな姿を見せつつも、目の前の仕事に必死だったからこそ、「伊藤をこのまま潰していいのか」と思ってもらえたのです。
マンション会社の件にせよ、物流の件にせよ、仕事をやりきることで成長できました。成功体験を積み上げることで人は成長すると言いますが、それより大切なのは、仕事をやり遂げる経験を増やすこと。目標を達成できなかった仕事でも、反省点を見つけ、次に活かせばいい。その意味で、仕事を逃げずにやり遂げた時点で成功と言えます。
ただ、仕事をやりきるには周囲の協力が欠かせません。20代で仕事恐怖症から立ち直れたのも、30代で新システムを最終的に無事導入できたのも、「あなたしかいない」と言ってくれた取引先の経理部長、「俺がなんとかする」と言ってくれた上司、「伊藤を潰させない」といってくれたグループ会社の部長、助けてくれた同僚や先輩がいたからこそ。本当に困ったとき、手を差し伸べてくれる人は、大変ありがたい存在です。
「なぜ、伊藤さんはいつも誰かに応援されるのですか」と聞かれることがあります。
人に恵まれたと言ってしまえばそれまでですが、一つ言えるのは、「誰とでもフラットに接する」よう心がけることです。
20代は、仕事ができる同期や上司をリスペクトしていましたし、30代は協力してくれる仲間に敬意を持って接していました。
私には仕事ができない時代があった。当時はボロクソに言われました。ある程度、仕事ができるようになった現在は、「伊藤さんはすごい」なんて具合に接し方が変わる。「昔も今も、自分は自分なのに、なぜなのか」と思います。人によって態度を変える人は信用できないので、応援されないし、困ったときに助けてもらえないでしょう。少なくとも、私は「仕事ができる人」にも「できない人」にも、リスペクトを持って接したい。
そのせいかどうかはわかりませんが、私は仕事で出会った人と、プロジェクトが終わった後も関係が続くことが多いです。
部署が変わっても、会社が変わっても引き継がれていく関係を作れるかどうか。誰もが、どこでも、誰とでも働く時代。これは重要なことだと思います。
更新:11月25日 00:05