2017年06月09日 公開
2023年05月16日 更新
職人の仕事を通じ、仕事で大切なことを学ぶ本連載。第7回目は、提灯に文字を書く江戸提灯職人の第一人者である瀧澤光雄氏に、仕事に対する心構えをうかがった。
紺屋が発案した書体を応用したことから生まれた江戸提灯。江戸時代には庶民の照明器具として親しまれてきた。しかし、今では職人も減り、パソコンで文字をデザインしたビニール製の提灯が主流になった。そんな中、池袋にある老舗、瀧澤提灯店三代目の光雄氏は、和紙を使用した手書きの江戸提灯にこだわり続けている。
「仕事への厳しい姿勢は父親から影響を受けました。ただ、私は職人になりたかったわけではないので、とてもキツかった。本当は車の整備工になりたかったのです。ですが、10歳年の離れた兄が逃げてしまい仕方がなく私が後継者になりました。
ある日、中学生だった私が学校から帰ってくると、親戚が集まっていました。『今日は法事でもないのに、なんでこんなに集まっているのだろう』と思っていたのですが、みんなの前に顔を出すなり、『兄が修業から逃げた。お前が家を継げ』とみんなに言われました。聞けば、修業の厳しさに耐えかねて逃げ出し、すでに電気屋になったという。『提灯屋は兄が継ぐからお前は好きに生きろ』と言われていましたから、冗談じゃないと思いました。しかし、嫌だと言える雰囲気ではありませんでしたから、しぶしぶ了解しました。そうしたら親父はその瞬間に『よっしゃ』と膝を叩いて、『今日から親でもなきゃ子でもない。親方と呼ぶように』と言いました。その日以来、死ぬまでお父さんと呼ぶことはなかったですね」
訳もわからぬまま、次の日から丁稚奉公が始まった。修業を本格的に始めたのは、中学を卒業してからだ。
「今でも覚えているのは墨を擂る作業。うちでは、すり鉢にお湯を入れて墨を擂るのですが、ちょうどいい濃さにしないと怒られるわけです。親方から『ちょうどいい墨の濃さは、色と艶で見ろ』と言われていましたが、墨なんて色は全部黒なんだから違いがわかるはずない。しかし、書いて確認することも許されません。墨が薄く、文字が滲んでしまい提灯をダメにしたことが何回もあります。そのたびに『提灯を無駄にしやがって!』と怒られました。『無茶言うな』と思いながらも、修業開始から3年目でようやく色の違いがわかりました。同じ黒でもねずみ色から本当に真っ黒になる瞬間があるのです。ちょうどよい濃さを出せるようになって、ようやく『いいぞ、給料を倍にしてやる』と褒めてもらえました。当時の月給500円が、1,000円になりました。少ないとは思っていましたが、『本来なら月謝をもらうんだから、お給金が出ているだけ有難いと思え』が親方の言い分でした」
100年を超える歴史のあるすり鉢。この中にお湯を入れ、墨を擂るのだという。
超スパルタ式の徒弟制のもと、修業時代を過ごした光雄氏。ただ、そのおかげで提灯作りの一連の作業をこなすことができるのだという。
「提灯作りは基本的に分業制です。竹骨を作る人、紙を作る人、提灯の上下の曲げ物を作る人、紙を貼る人、文字を書く人など、さまざまな職人が携わります。私は文字を書く人にあたるのですが、親方は何でもできたほうがよいという方針を持っていたので、何でもやらされました。お客さんから、専門職以外のことも求められることがあるからです。
たとえば、提灯の紙の張り替えもしましたね。提灯に薄い墨で文字を書く練習をした後、新しい紙に貼り代えるのです。一連の流れを体得するのに、実践的な修業でした。
また、弓型提灯の弓も作っていました。取っ手の部分からトゲが出ないようヤスリでならし、工芸用の漆を塗り直して籐を巻く。そうすると、持ち手が滑りにくくなるのです。
そうした修業のおかげで、古い提灯の復刻で必要な型起こしや骨組みなどといった作業も一人でこなしています。
本来できなくても支障はないのかもしれませんが、やってみなければ仕事の幅が広がりません。それを、やらないうちから『できません』というのは、お客さんに対して失礼だと思います」
修業開始から11年経った26歳の頃。光雄氏が結婚した年に、親方が亡くなってしまう。
「今思えば、死期を悟っていたからこそ、あんなに厳しく育てようとしてくれたのかなと思います。ちなみに、とても印象的だったのが親方の死後、東京都の提灯組合の会合で挨拶したときに、『よく耐えてきたな!』と驚かれたことです。あの修業を耐え抜いたのだから、何とかやっていけると思いました」
とはいえ、親方の死後すぐは大変だったという。
「これまで以上に精力的に仕事に取り組みましたが、『あそこは親父が死んだからもうだめだよ』と言って離れていくお客さんたちがいました。ですが、淡々と仕事をこなしていくうちに、『ちゃんとやっているじゃないか』と戻ってきてくれたのです」
父の仕事ではなく、自分の仕事をお客さんから支持してもらう。それ感じたのは、光雄氏が30歳のときだった。あるお客さんから「親父さんと違う字だね。丸くて温かみのある字だ。ごつくない」と言ってもらったときだという。
「修業時代から、自分の書体を作れと言われ続けてきました。江戸提灯には、自分の署名を残すことができないから、文字を見ただけで誰の作品かわかる仕事をしなければ忘れられてしまうのです。ですから私は、お手本を模写するという修業をしたことがありません。お手本があるとついモノマネに終始してしまい、オリジナリティがなくなってしまうからです」
では、文字の修業はどのようにしていたのだろうか。
「すべてお客さんの反応です。良い出来か、悪い出来か。決めるのはすべてお客さんです。彼らの反応を見つつ、改善を重ねて自分の書体を作り上げる方法を模索していきました」
大正時代の江戸提灯。新作の依頼だけでなく、古い提灯を復刻して欲しいという依頼も頻繁にくるのだとか。
光雄氏には、3代目として働き始めてから一つ印象的なエピソードがあるという。
「山梨県の身延山に収めた提灯を修繕する仕事です。親方が昭和28年に作った提灯を、 46年ぶりに修繕したのです。ただ、高さが6尺(およそ1m80㎝)ある丸型の提灯で、大きすぎて字の感覚がわからない難しい仕事でした。
江戸提灯職人は、丸い提灯に字をきちっと書けたら一人前と言われています。上と下がすぼんでいるので、真っ直ぐ書くのが難しいからです。たとえば、川という文字を書く場合、上と下を末広がりに書かなければ、遠くから見たときに真っ直ぐに見えません。遠くから眺めて真っ直ぐに見える文字をイメージしながら仕事をするのです。それに加え、その提灯は大きさがありましたから、本当に難しかった。もう二度とない仕事でしょう」
このとき、初めて親方の文字と自分の文字をしっかりと見比べたという。
「下町の職人らしい、角がしっかりした書体だなと思いました。それに比べ、自分は柔らかい書体だというのもうなずけました。比べてみて、『これが自分の書体なのだ』と改めて認識しました」
ただ、親方の仕事を否定するわけではありませんが、角張ってなくてもいいのではないか、とも思いました。江戸提灯は昔から角張った文字を書く職人が多いようです。もっと自由な発想で、自分の書体を追求してもよいのではないでしょうか」
自分だけの書体を追求したからこそ、オリジナルの仕事ができるようになる。もちろん、それには膨大な時間が必要だと光雄氏は言う。ただ、これは絶対の正解がないビジネスの世界でも共通しているのではないだろうか。
みんなと同じような仕事をするのではなく、自分らしい仕事を心掛けていきたい。
2017年7月号 一流の職人に学ぶ「仕事の流儀」
写真撮影 まるやゆういち
更新:11月23日 00:05