2016年09月01日 公開
2024年12月16日 更新
岩崎も、決して私利私欲で巨大財閥を築いたわけではない。岩崎家家憲に「国家的観念を以って総ての事業に当たれ」とあるように、国のことを考えてビジネスをしていたのだ。
たとえば、日本近海の航路が外国資本の手に落ちてしまわないように、さまざまな手を打っている。横浜~上海航路を運航していた米国パシフィック・メイル社からは、執拗な交渉の末に営業権を買い取ることに成功。その後、上海航路のみならず大阪~東京航路などに進出してきた英国P&O社とは、荷為替金融などの顧客サービスの充実や徹底したコスト削減で戦い、ついに撤退に追い込んだ。
坂本龍馬ら幕末の志士たちと接した岩崎らしい愛国心だ。
五代は株式取引所をはじめとする近代経済のインフラを大阪に築き上げ、「東の渋沢、西の五代」と並び称された。数々の企業を設立したにもかかわらず財閥を形成しなかったことも渋沢と共通する。財産を溜め込まなかったどころか、多額の借金を残して死んだ。
五代の働きにより、明治中期の大阪はとくに紡績業で栄えて「東洋のマンチェスター」と呼ばれるまでに発展するが、五代は実際に英国マンチェスターを訪れたことがある。幕末、薩摩藩遣英使節団の一員としてだった。このときの経験が大阪で活かされたと思われる。五代がマンチェスターから招いた紡績機械技師の宿舎「旧集成館」は、昨年、世界遺産に登録された。
《写真提供:国立国会図書館》
《『THE21』2016年4月号より》
更新:01月19日 00:05