THE21 » カルチャー&トレンド » 海賊版被害額は年間8.5兆円!? 漫画市場は得られたはずの富を取り戻せるか

アニメ、ゲームで稼ぐ国、日本──。2023年のゲーム・アニメ・映像・出版・音楽を合算したコンテンツ産業の海外売上額は5.8兆円(経済産業省)に達する。基幹産業である自動車に次ぐ日本第2位の輸出産業だ。いまや鉄鋼や半導体産業に匹敵する規模を誇る。
コンテンツ産業において、漫画は知的財産(IP)の源泉としての役割を担う。ゲーム、アニメ、映画といったコンテンツの原作でもあり、世界中で熱狂的に消費されている。例えば漫画「鬼滅の刃」を原作としたアニメの劇場版(2025年公開、無限城編)の興行収入は、全世界で1000億円超と邦画初の記録を樹立した。
しかし、漫画の海外売上の多くが日本には還ってこない。問題は、翻訳されていないことによる海賊版の被害、さらには、日本のコンテンツ産業が長年抱えてきた構造的な課題にある。
海外展開を考えるにあたって、本稿では、「海外で売れているのか?」と「日本の企業が儲かっているのか?」という2つの観点で整理していく。
「海外で売れているのか?」は、日本の財・サービスの海外での消費額を指し、海外売上と呼ばれる。一方、「日本の企業が儲かっているのか?」は、海外売上のうち、最終的に国内の事業者に還元された金額を指し、海外収入と呼ばれる。
この海外売上と海外収入という、似て非なる2つの数値を漫画とゲームで比較すると、両者の海外展開の違いが浮き彫りとなる。
ゲームの海外売上は約2.8兆円と、漫画の8.6倍の規模だ。さらに海外収入を見ると、ゲームの場合、海外の売上の9割弱が日本企業に還元されている。
多言語対応のコストは漫画よりゲームのほうが低い(後述)。また、売上の大半を占めるハード(家庭用ゲーム機)は任天堂やSIE(PlayStationの開発・販売を担うソニー子会社)によって世界中に直接販売されている。売上のほとんどは日本企業の収益となる。ソフト販売もまた、デジタルダウンロードが普及した現在、配信プラットフォームへの手数料は発生するが、ほとんどの収益が日本企業に還元される構造は維持されている。
一方、漫画には海外売上と海外収益のそれぞれに対して大きな課題がある。海外売上の壁は「翻訳の壁」だ。そもそも漫画はあまり翻訳されていない。翻訳コストが高すぎるのだ。正規の供給がないため、海賊版の温床となる。
海外収入の壁は「流通モデル」だ。漫画では、現地出版社に一括で任せるライセンスアウトが伝統的かつ主流モデルである。コストを抑えて海外展開が可能だが、ゲームと比較すると日本への還元率(海外販売に対する海外収入の比率)は低い。
この2つの課題について、前編では翻訳の壁について、後編では流通モデルの課題と日本の選択肢を論じる。
現在、AIによる翻訳は日常となった。生成AIが普及するもっと前、コロナ前から「ポケトーク」やDeepLのようなテキスト翻訳の自動化サービスは広がっていた。しかし、漫画の翻訳は進まなかった。理由は、言葉を置き換えるだけでは漫画の翻訳は成立しないからだ。
漫画の原稿は、その面積の多くを絵が占める。翻訳するプロセスでは、まずセリフが入った吹き出しから日本語だけを消去し、翻訳後のテキストを配置し直す必要がある。
日本語から英語に訳すとテキスト量は1.5〜2倍に膨らみ、縦書きから横書きへの変換も生じる。吹き出しの枠にぴったり収まるよう文字サイズや行間を、手作業で微調整する「写植」という工程が不可欠だ。言語ごとに異なるフォントから、そのシーンの雰囲気に合ったものを選ぶ作業も伴う。
さらに難易度を上げるのが、「ドーン」「ゴゴゴ」といった漫画特有のオノマトペ(擬音語・効果音)だ。オノマトペはキャラクターや背景の絵の上にダイナミックなデザイン文字として描かれ、絵と一体化している。翻訳する際には、言語を変えるだけでなく、消した跡の背景や線を描き足して、絵を修復する画像処理まで発生する。
こうした工程の複雑さから、翻訳にかかるコストと時間は膨大になる。
外国語に翻訳された正規版のリリースは、日本語版の発売から数ヶ月以上のタイムラグが常態化していた。高すぎる翻訳コストによって、正規に多言語展開される作品は、すでにアニメ化や映画化されてヒットが約束された一部の大作に絞られてきた。日本で出版された漫画タイトルのうち、正規翻訳されて海外流通しているのはわずか数%にすぎない。
海賊版対策を推進する団体ABJの発表によれば、2023年6月の1ヶ月分だけで被害額は7000億円を超える。海賊版サイトの滞在時間を調査し、30分でコミック1冊=500円を読めるとしたときの試算だ。
年換算すると8.5兆円規模にのぼる。別の調査(CODA)によれば2019年から2022年の4年間で被害額は5倍に拡大しており、海賊版の被害は年々深刻化している。
一方で、漫画を含む出版分野の海外売上額は3200億円(2022年、経済産業省)と、海賊版被害の27分の1に留まる。さらに、日本企業がライセンスアウトした海外出版社から受け取るライセンス収入は256億円にまで減る。
8.5兆円という数字は「盗まれた損失」であると同時に、世界中に巨額の需要があることを裏付ける。
NetflixやAmazonといった動画配信サービスを通して、日本のアニメの視聴者は世界中で拡大した。アニメの原作漫画を読みたいという需要は高まっている。
「最新話を母国語ですぐに読みたい」「まだ翻訳されていない名作を読みたい」という声があっても、正規版は供給されていない。需要と供給のギャップを突くように、無断翻訳した漫画をインターネット上に公開するスキャンレーション(違法配信サイト)が蔓延してきた。
膨大な数の日本の漫画が世界中で消費されながら、そこから生まれるべき正当な対価が、海賊版サイトの広告収入などに流出し続けてきたのだ。
「翻訳コストを解消することで、この需要の一部は確実に正規収益へ転換できる」というのが漫画業界がAI翻訳にかける期待の根拠でもある。海賊版に流れていた読者を正規ユーザーとして取り込む余地は大きい。
翻訳のボトルネックに変化をもたらしつつあるのが、漫画に特化したAI翻訳技術だ。
MantraやオレンジといったスタートアップのAI翻訳は、セリフの自動認識・消去から始まり、文脈を踏まえた翻訳、フォントの自動選択、吹き出しへのテキスト自動配置まで、職人が手作業で行っていた工程を一連で処理する。品質担保のため、人間によるポストエディットは欠かせないが、作業スピードは格段に向上する。
オノマトペも翻訳候補を複数提案し、重なった背景の画像修復まで対応する機能も備えている。汎用テキスト翻訳ツールとは異なり、漫画の「絵と文字が一体化した構造」に特化して設計されている点が特徴だ。オレンジ社がAnthropicの「Claude」を活用したシステムでは、翻訳プロセス全体で5〜7倍の効率化が実現している。
業界の本気度は資金の動きにも表れている。Mantraに対しては集英社、小学館、KADOKAWA、スクウェア・エニックス等が出資し、総額7.8億円を調達。オレンジ社もグロービス・キャピタル・パートナーズや小学館などから29.2億円の出資を受け、2025年には金融機関から総額25億円の融資も得た。翻訳の壁を超えることが、業界全体の課題として共有されてきた証左といえる。
AI翻訳の登場で、これまで採算が確実な一部のヒット作品に限定された状況が変わりつつある。国内市場のみで消費されてきた良質なニッチ作品も過去の名作も、次々と採算ラインに乗り、世界市場に供給できる可能性が開かれてきた。
バトル、恋愛、医療、グルメ、ホラー、ビジネスまで、存在しないジャンルを探す方が難しいほど多様な日本の漫画ライブラリ。翻訳の壁が崩れることで、膨大なタイトル数という強みが、そのままグローバル市場での競争力に転換できるかのテストが初めて可能になる。
更新:09月07日 00:05