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イーロン・マスクを形作った 「南アフリカのいじめられっ子」という原体験

クィン・スロボディアン、ベン・ターノフ (著), 樋口武志(訳)

イーロン・マスクを形作った 「南アフリカのいじめられっ子」という原体験

稀代の実業家イーロン・マスクは、どのような環境で少年時代を過ごしたのか。アパルトヘイト下の南アフリカと、テクノロジーに没頭した少年期を振り返る。

※本稿は、クィン・スロボディアン、ベン・ターノフ 著、樋口武志 訳『マスキズム 新たな独占の時代』(飛鳥新社)の内容を一部抜粋・編集したものです。

 

アパルトヘイトが作った未来の都市

マスクは1971年にプレトリアで生まれた。そこは要塞型未来主義の見本のような都市だった。

行政首都であるプレトリアには、アパルトヘイトが立案された行政府や、アパルトヘイトを維持する治安機関が置かれていた。そして政府庁舎の建築には、アパルトヘイト体制の支配者たちの理想が現れていた。コンクリート、鋼鉄、ガラスを用い、ピロティや基壇、カーテンウォールを配した、洗練されたインターナショナル・スタイルのモダニズム建築だった。

少年時代のマスクが暮らしたプレトリアは、精緻な歯車装置(ギアボックス)のように輝いていて、まるでブラジリアやチャンディーガルのようなル・コルビュジエ的な最先端の外観をしていた。

そのギアボックスの街外れには、ブルータリズムの建築群が鎮座していた。そこは南アフリカ最大の核研究拠点だった。ズールー語で「物語の終わり」を意味する言葉から「ペリンダバ」と呼ばれた施設だ。

金の採掘から得たウランを用い、アメリカとイスラエルの科学者たちの専門知識を頼りながら、南アフリカはまず原子力発電、それから核兵器の開発に取り組んだ。そして1982年までに、最初の実用核弾頭を保有するに至った。

プレトリアの残りの地域は、人種隔離を不動のものとしていた。

黒人は都市外縁の隔離された「タウンシップ(黒人居住区)」へと追いやられる一方、白人エリートは高校時代のマスクが暮らしたウォータークルーフのような、南部の郊外に位置する尾根沿いの斜面に集まっていた。

プールと緑の庭を備えた居住区であり、市中心部の省庁や軍事施設まですぐに移動できる道路も整っていた。1990年代頃に一般的になっていく塀に囲まれた「ゲーテッド・コミュニティ」にはなっていなかったが、そうなる必要もなかった。彼らの安全は国家全体が保証していたからである。

都市の外縁には工場や倉庫が点在していた。工業化の拠点だ。それまで輸入に頼っていた製品の国内生産を目指した場所だった。経済的な自給自足を目指し、相互に補完しあう産業システムが築かれる。プレトリア・ウエスト地区では鉄鋼、弾薬、ゴム、そしてプラスチックが生産された。東側では1967年にフォードがシルバートンに工場を建設。北西部では1968年にBMWがロスリンに、ヨーロッパ外では初となる工場を作った。

こうした自動車工場は白人の都市部と黒人居住区のあいだに建てられており、黒人労働力を手近に控えさせておくことで、必要とあらば利用し、不要となれば切り捨てられるようにしていた。フォーディズムの基本原理が大量生産と大量消費であったのに対し、南アフリカの変形版では、大量生産はそのままに、大量消費は白人少数派だけの特権となった。

1980年代、政治学者のスティーブン・ゲルブは、この南アフリカのシステムを「人種的(レイシャル)フォーディズム」と名付けた。

南アフリカにおける生産性、安全保障、そして人口管理にとって、もうひとつ重要なテクノロジーだったのがコンピュータだ。

1965年に設立された計画省は、国家を「人種的フォーディズムという方針に沿って組織されたひとつの工場フロア」として構想していた。

官僚たちは、黒人コミュニティを強制移住させて白人地域からいわゆる「ブラックスポット」を一掃し――1980年代初頭までに350万人を立ち退かせ――安価な黒人労働力を新たな工業地帯へと送り込んだ。

この大規模な社会工学プロジェクトを遂行するためには、膨大な個人データの収集が必要だった。南アフリカは、ある歴史家が呼ぶところの「生体情報管理国家(バイオメトリック・ステート)」であり、アパルトヘイトの実行にあたって政府が必要とする情報を保存・処理するうえでコンピュータが決定的に重要な役割を果たした。

たとえば全市民の人種分類を記録する国民識別システム「生命の書(ブック・オブ・ライフ)」には、IBMの大型コンピュータが活用された。すぐに反アパルトヘイトの活動家たちは、こうしたツールに潜むディストピア的な危険性を察知した。1982年に作られた「オートメーション化するアパルトヘイト」という冊子には、近未来のシナリオが描かれている。その内容は次のようなものだ。

オペレーターが「コンピュータ」に指示する。「ヴィクトリア通りにいる黒人すべての名前と住所を出して。通行証の番号と指紋も一緒に」。すると「コンピュータは要求されたデータを画面に映し出す(中略)。同時に、その情報は警察へも電子的に転送される」。

パンフレットはこう警告する。「コンピュータ技術が輸入されると、こうした運用が容易になってしまう」

実際の運用能力は懸念されたほどには至らなかったものの、テクノ権威主義(テクノ・オーソリタリアニズム)という暗い想像は決して非現実的なものではなかった。

最初の時点から、アパルトヘイトはデータ駆動型のプロジェクトであり、社会を最適化すべき対象と見なす反動的テクノクラシー(技術官僚政治)であった。官僚たちは、コンピュータを用いればプロジェクトの精度を高められると理解していた。

しかしデジタルツールは政権だけの手にあったわけではない。アパルトヘイトに反対する組織もコンピュータへの対応を見せ、「コモドール64」――1982年に発売された初期のパーソナルコンピュータ――を用いて、海外の活動家へ暗号化されたメッセージを送っていた。テクノロジーは国家の鎧を強化したが、その鎧にひびを入れる可能性も秘めていたのだった。

 

いじめに遭っていたオタク気質の少年マスク

活動家のみならず、コンピュータを通じてより大きな世界への入口を得た人物が、若きイーロン・マスクだった。内気でオタク気質の子どもだったマスクは、当時の白人南アフリカ社会に満ちたマッチョイズムに疎外感を覚えていた。そこは「知的な文化ではなかった」と父のエロールは振り返っている。

学校では、深刻ないじめに遭っていた。家では、ひたすら本を読んだ。のちに伝記作家に語ったところによれば、図書館の本を読み尽くすと、彼は『ブリタニカ百科事典』の2巻セットを読破したという。

マスクは白人市民のなかでも英語話者という少数派に属していた。英語話者はアパルトヘイトに批判的な傾向にあったが、反人種差別的な立場をとっているわけでもなかった。

アパルトヘイトはオランダ系入植者(ボーア人)の末裔である「アフリカーナー」が主導する施策だった。アフリカーナーは、かつて南部アフリカの支配をめぐってイギリスと戦った人々で、南アフリカ白人市民の多数を占めていた。当時の与党である国民党を率いるアフリカーナーたちは、国のなかで最も政治的権力を持つ勢力だった。

「マスク家のような、白人で英語を話す南アフリカ人は、アパルトヘイトの人種ヒエラルキーの恩恵を受けていたが、基本的に支配層であるアフリカーナーたちとは別個の生活を送っていた」

南アフリカ人ジャーナリストのレイチェル・サヴェッジはそう指摘している。

とはいえ、英語話者の白人が政治に関わることもあった。イーロンの父エロールは1972年から1983年までの11年間、プレトリア市議会でサニーサイド地区を代表する議員を務めていた。

彼は1980年、主に白人英語話者で構成された、反アパルトヘイトの改革派「進歩連邦党」に参加したが、わずか3年で離党している。

離党の理由は、新憲法によって成立した「人種別三院制議会」(白人、混血の「カラード」、そしてインド系の三院で議会を構成しつつ、カラードとインド系の住民には限定的な参政権しか与えず、黒人多数派の排除も続ける制度)に自分の党が反対したことに同意できなかったからだ。

のちにエロールは、アパルトヘイト時代を懐かしげに振り返り、2025年には『ガーディアン』紙のインタビューで、次のように語っている。

「あそこには何の問題もなかった。人々は、黒人も白人も、互いにとてもうまくやっていた。すべてが機能していた。それが現実だ。もちろん、人はそんなことを耳にしたくないだろうが、それが真実なんだ」。

マスクは、1901年にイギリス植民地のエリート養成校として創設されたプレトリア・ボーイズ・ハイスクールに通った。彼と同級生たちは、名門私立イートン校やハロウ校のような縞柄のボートブレザーを着て写真におさまっている。その姿は、「地位の低い」アフリカーナーや黒人住民とは切り離された、典型的な南アフリカの英語系白人のものだった。

マスクより1学年上だった元生徒は、次のように振り返っている。

「国中が炎や大きな混乱に包まれているあいだも、僕たちは木々に囲まれた穏やかな郊外で、この上なく安全に、ごく普通の生活を送っていた」。

同時に、この学校は例に漏れずリベラル色の強い部分もあり、1981年には初めて黒人生徒を受け入れている。マスクはその生徒のいとこと友人となり、その友人が1987年に交通事故で亡くなった際は、葬儀に参列した数少ない白人のひとりとなった。

だが何より、マスクにとって1980年代の南アフリカは耐えがたいほど偏狭な田舎に感じたに違いない。

エロールの財力と度重なる出張のおかげで幼少期からあちこち旅していたことも、その感覚に拍車をかけた。

父はイーロンを、香港からアメリカまで世界各地に連れて回った。

それに比べると、母国は閉じた社会であり、世界のどこからも遠く離れていた。南アフリカは「イーロンのような人間にとっては監獄みたいな場所」と弟のキンバルは語っている。

プロフィール

クィン・スロボディアン

歴史学者

ボストン大学フレデリック・S・パーディー・スクール・オブ・グローバル・スタディズの国際史教授。著書に『破壊系資本主義―民主主義から脱出するリバタリアンたち』、近著に『Hayek's Bastards: The Neoliberal Roots of the Populist Right 』(2025)などがある。

ベン・ターノフ

作家

マサチューセッツ在住の作家・テクノロジスト。著書に『Internet for the People』(2022)、共著に『Voices from the Valley: Tech Workers Talk About What They Do ― And How They Do It』(2020)がある。『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』に数多く寄稿するほか、『ニューヨーク・タイムズ』『ニューヨーカー』『ニュー・リパブリック』などでも執筆している。

樋口武志(ひぐち・たけし)

翻訳者

翻訳者。1985年福岡生まれ。訳書に『異文化理解力』『THE HEART OF BUSINESS(ハート・オブ・ビジネス)』(以上、英治出版)、『AIは人間を憎まない』『サッカーはデータが10割』(小社)など。

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