
1959年、ホンダはバイクでアメリカ市場に挑戦し、のちに自動車へと進出。ビッグ3を相手に、無謀ともいえる挑戦から世界的メーカーへと躍進した。その裏には、計画ではなく「試行錯誤から生まれた戦略」があったという。本稿では、書籍『経営戦略全史〔完全版〕』より、ホンダのアメリカ進出の経緯を解説する。
※本稿は、三谷宏治著『経営戦略全史〔完全版〕』(日経BP)より内容を一部抜粋・編集したものです
1959年にバイクでアメリカ市場に攻め入ったホンダは、呻吟艱苦の末、望外の成功を収めました。そして63年、自動車製造に乗り出し、70年にはアメリカ本土での販売を始めます。
しかし、T型フォード(1908)以来60年間、フォード、GM、クライスラー(後にアメリカン・モーターズを吸収)に慣れ親しみ、その販売店と長い付き合いをしてきたアメリカの「豊かな大衆」に、シビックを中心とした日本製の小型車は、ほとんど受け入れられませんでした。まだまだ品質も高いとはいえない「安かろう悪かろう」商品でした。
しかも参入当時の企業規模差は、GMとホンダで68倍。ビッグ3最下位のクライスラーとでも、13倍以上の差がありました。普通に考えたら、参入不可能です。
でもホンダは諦めるわけにはいきません。日本ではトヨタ・日産に勝てるわけもなく、より市場の大きなアメリカで勝負すると決めていました。
折しも、アメリカではマスキー法(1970 ※1)が議会を通り、「5年以内に排気ガス中の有害成分を10分の1にする」ことが自動車メーカーに義務づけられることになっていました。ビッグ3はみな声を揃えて「不可能だ」と叫びます。でも「だからこそチャンスだ」と本田宗一郎(1906~1991)は考えました。
久米是志(1932~2022)をリーダーとした、入交昭一郎(1940~)らホンダ技術陣の総力を挙げた環境エンジンCVCCは、見事世界で最初に(マフラー等での後処理なしで)マスキー法基準をクリアし、その技術力を世界に見せつけました(※2)。
さらにそこに訪れたのが、オイルショック(1973)でした。ホンダの小型車は低燃費で排気ガスが少ないと注目が集まります。ホンダはようやく、アメリカで生き残りへの橋頭堡を築きました。
(※1)米国自動車メーカーらの反発により、規制実施期限の前年、1974年に廃案となった。
(※2)本田は「売上を伸ばすチャンスだ」と喜んだが入交らは「私たちは社会のためにやっている。子どもたちに青空を残すのだ」と反発した。
1977年HBSの重鎮リチャード・ルメルト(Richard Rumelt,1942~)はMBAの学生たちにこんな「易しい」問題を出しました。
「ホンダは世界の自動車産業に参入すべきか」
ルメルトは、「イエス」と解答した者には落第点をつけました。なぜなら、
①すでに市場は飽和状態であった
②優れた競争相手が、すでに日米欧にいた
③ホンダは自動車に関する経験が皆無に等しかった
④ホンダは自動車の流通チャネルを持っていなかった
からです。
当時まだ、ビッグ3には規模で数倍の差がありました。しかし同年ホンダは日本企業として初めて、オハイオに
65億円を投じて、バイクの生産工場を立ち上げ、5年後の82年には自動車の生産を始めます。社内外から「アメリカでつくって本当に大丈夫か」との強い品質懸念があった中での決断でした。
入交に率いられた生産会社HAM(※3)は、従業員たちをワーカーではなくアソシエイトと呼び、ホンダの哲学や生産理念を現地流に引き直した「ホンダ・ウェイ」をつくり上げ、圧倒的な高品質と高生産性を達成します。
その勝算はしかし、1976年にはホンダに生まれていました。提携の打診を受けてフォードの基幹工場を見学したホンダ幹部は、その圧倒的な規模に驚くとともに、その生産思想や方式の古さを感じました。ホンダはすでに、ロボットによる溶接や迅速な金型交換などによる一貫生産によって、大量生産に依存しない高生産性を実現しつつあったのです。
「ホンダはアメリカでも十分にやっていける!」
ホンダは規模や経験曲線という既存の壁を見事に突き破りました。
ルメルトが「ホンダは自動車で世界進出すべきでない」と結論づけたMBA講義から8年後の85年、彼の奥さんの愛車はホンダ車になっていたそうです。とっても高品質でほどよい大きさと価格だったので、当然です。
(※3)Honda of America Manufacturing
それまでのポジショニング派の常識を覆す「戦略」をいくつかの日本企業が成功させる中、最大の論争になったのが「ホンダがなぜアメリカのバイク市場で成功したか」でした。
日本国内で、後発であったにもかかわらず、ホンダはその技術力でトップに上り詰めます。排気量50㏄、4ストロークエンジンのスーパーカブがその原動力でした。そば屋の兄ちゃんが片手で運転できて(ノークラッチの)、スカートの女性でも乗れる(ガソリンタンクを座席の下に配した)、手軽で低価格高性能なバイクです。
当時の雑誌広告には「ソバも元気だおっかさん」の文字が躍ります。アメリカに進出した59年までには、ホンダは年産28.5万台(※4)を誇る日本一のメーカーになっていました。
しかし、アメリカでは500㏄以上の中大型バイクしか走っていませんでした。ほとんどが国産のハーレー・ダビッドソン。一部が欧州からの輸入車でした。ホンダはそこに革命を起こします。小型バイク市場を文字通り創造したのです。
伝説の大ヒットキャンペーン「ナイセスト・ピープル(Nicest People ※5)」の後押しもあり、スーパーカブは売れまくります。日本市場での量産効果に支えられたスーパーカブは、価格的にも品質的にも、競合に圧倒的な差をつけており、わずか5年後の64年にはアメリカで売れるバイクの2台に1台はホンダのものとなりました。
そしてその効果はやがて中大型バイクにも及びます。ホンダは中大型バイクでもシェアを伸ばし、輸入車トップのイギリス車、トライアンフに続いて、本家ハーレー・ダビッドソンをもアメリカ市場のトップの座から追い落とします(※6)。
自国のバイク産業に危機感を感じたイギリス政府は、その分析をBCGに委託します。75年に出されたBCGの報告書は、そういったホンダの快進撃のメカニズムを、経験曲線分析と市場セグメンテーション、小型バイクと中大型バイクとの共有コスト分析などを用いて、鮮やかに描き出しました。
・ホンダは経験曲線に基づくコストリーダーシップ戦略で、新しい市場(アメリカでの小型バイク)創造に成功し、その後そこでの経験曲線を利用し、既存市場(中大型バイク)をも席捲した。
残念ながらその分析が、イギリスバイク産業を救うことはなく、トライアンフは消滅(※7)しますが、ポジショニング的企業・事業戦略の典型として、この報告書はビジネススクールの教材として盛んに使われました。
(※4)その59%はスーパーカブだった。
(※5)「You meet the nicest people on a HONDA」と謳う広告では「良識ある素敵な人(nicest people)」が笑顔で軽快にバイクに乗った。アメリカにおけるバイクのイメージを変えた、と賞賛された。
(※6)1982年には売上高500億円足らず。経営危機に陥り創業者の孫ら経営幹部が自社株を買い取った。マネジメント・バイアウトの走り。
(※7)最終的にとどめを刺したのは、米政府がハーレー救済のために設けた高率関税。1990年からはカワサキの技術を取り入れて復活。
ところが9年後の1984年、衝撃的な論文が西海岸から現れます。マッキンゼーのリチャード・パスカル(Richard Pascale, 1938~2024)が書いた『戦略の視点〜ホンダの成功の背後にある本当の物語』です。
日本企業研究に打ち込んだ彼は、ホンダの当時の経営幹部6人にインタビューをし、驚くべき結論を導きだしました。
・ホンダに当初、明示的な戦略はなかった。ホンダの「戦略」は、失敗を積み重ねる中で創発的に生まれ出てきたものだ
パスカルはその上で、「BCGの分析は、現実を過度に単純化し、直線的に説明しようとする西洋的考え方の表れだ」とし、それを「ホンダ効果(Honda Effect)」と名付けました。ホンダの成功(という結果)に引きずられて、その原因やプロセスまで素晴らしいものだと感じてしまう一種の「ハロー効果(Halo Effect)」と感じての命名でしょう。
『戦略の視点』では、ホンダの幹部たちの試行錯誤や非分析的・無計画的行動が明らかにされています。
――なぜアメリカで小型バイクを販売しようと思ったのか?
「最初はアメリカ人に馬鹿にされたくなくて中大型バイクを中心に売るつもりだったが大して売れず、しかも乗り方が違うので故障ばかりして大変だった」
「ところが社員が商用で乗り回していたスーパーカブに人気が集まり、それをまじめに売り出すことにした」「そうしたら当たった」
――売上目標はどうやって決めたのか?
「直感で決めた」
「欧州からの輸入車の10%は取れるだろうと思った」
――なぜ欧州でなくアメリカを選んだのか?
「戦略などなかった。本場のアメリカでどれだけやれるかやってみようと思っていただけだった」
パスカルの「ホンダ効果」は「人間的要素」「計画的より創発的」の重要さを示したことで、それまでのポジショニング派が依拠していた大テイラー主義(分析ですべてがわかる)をも脅かします。
更新:11月03日 00:05