
世界的コンサルティングファーム、ボストンコンサルティンググループ(BCG)の歴史は、創業者ブルース・ヘンダーソンから始まった。1960年代、BCGは日本にオフィスを構え、当時急成長していた日本企業から多くを学ぶことになる。本稿では、書籍『経営戦略全史〔完全版〕』から、その躍進の背景を解説する。
※本稿は、三谷宏治著『経営戦略全史〔完全版〕』(日経BP)より内容を一部抜粋・編集したものです
「すべての仕組みを明らかに」
大学で機械工学を学び、HBSを残り3ヶ月で自主退学したブルース・ヘンダーソン(Bruce Henderson, 1915~1992)が、ボストン コンサルティング グループ(BCG)を立ち上げたのは、1963年、48歳のときでした。
キャリアとして、GEの冷蔵庫部門9ヶ月を皮切りに、メーカー3社(※1)で22年、経営コンサルティング会社1社(アーサー・D・リトル)で3年過ごした後のことでした。特に同じ特殊モーター業界で競合するリーランドとウエスティングハウス両方での経験は、彼に大きなインサイト(洞察)を与えたといいます。
「なぜ、ウエスティングハウスは大企業なのに勝てないのか」
「なぜリーランドは小企業なのに大企業よりずっと低コストで生産・販売できるのか」
「なぜ企業は不採算な事業や商品を抱えるのか」......。
「企業や市場を徹底的に分析して、それを動かしているシステムを見つけ出したい」というヘンダーソンの知的欲求が、BCG設立(※2)の原動力でした。でもそのためには、同じく知的欲求と能力に長たけた仲間が必要でした。
彼は「ビジネス経験不問。高度な知的欲求と知的水準求む」とリクルーティングを開始します。マッキンゼーを超える高給を提示したとはいえ、ブランドも歴史もないのにHBSの卒業生すら「トップクラス以外は門前払い」という(高飛車な)採用です。
それに逆に惹かれた若者のひとりが、20年後のCEO、ジョン・クラークソン(John S.Clarkeson, 1942~2019)でした。社員番号はまだ一桁でした。
(※1)GEプラス、防爆モーターのリーランドで3年、ウエスティングハウスで18年
(※2)最初は、ボストン・セーフ・デポジット・トラストの経営コンサルティング部門として設立された。

ゼネラル・インスツルメンツはテレビ部品事業で競合の価格に太刀打ちできないことに悩み、BCG(当時スタッフ6名)に相談を持ちかけました。ヘンダーソンは、クラークソンを派遣して調査に当たらせます。自分の興味のあった「学習効果」を中心に調べてくれと。
早速、クラークソンが見つけたハーバード・ビジネス・レビューの『学習曲線から得られる利益』(1964)という論文にはこうありました。
「航空機製造にかかる1機あたりの労働投入量は、製造機数が倍になる度に2割減少する」
クラークソンたちはこれを製造・販売にかかる全コストに拡張し、累積の生産量を経験量と呼びました。累積の経験量が倍になると、コストが一定割合ずつ減少していく。両対数グラフで書くときれいな直線になる「経験曲線 Experience Curve」の誕生です。
これをさらに企業の市場シェアと結びつけ、こう主張しました。
「競合よりコストが高ければ、どうしようもない」
「しかし、自社の将来のコストや、競合のコストは経験曲線で予測・推定ができる」
「生産・販売量を増やして市場シェアを上げれば、経験曲線を競合より早く駆け下りることができる」
「そうすれば競合より低コストになり、低価格戦略でも優位に立てる」
これは当時、アメリカ企業が頭を悩まされ始めた日本企業の行動原理を説明したものでもありました。とにかく市場シェア拡大を求めて(短期的な利益を度外視して)低価格戦略をとる姿に、違和感を抱いているだけだった企業が多い中で、BCGは言ったのです。「あれは正しい。見習うべきだ」と。
経営戦略史に、ようやく日本が登場しました。その発端はジェイムズ・アベグレン(James Abegglen, 1926~2007)という人物です。彼は海兵隊員として日本語を学び始め、シカゴ大学で人類学と臨床心理学の博士号をとりながら、研究員として日本を訪れて、その調査結果を『日本の経営』(1958)として紹介します。
どうしても日本で働きたくなった彼は、日本オフィス設立を目指しますが、ADL、マッキンゼーではうまくいきませんでした。それをヘッドハントしたのがヘンダーソンでした。
彼はアベグレンをBCGのナンバー3に迎え、会社設立のわずか3年後の1966年に、しかも2番目のオフィスとして東京オフィス(とミュンヘンオフィス ※3)を設けました。アメリカ至上主義だった経営コンサルティング会社の、グローバル化の先駆けでした。
その窓を通して、BCGは日本企業を深く知ることになったのです。
同じ頃にヘンダーソンにヘッドハントされたのが、財務論の准教授だったアラン・ゼーコン(Alan Zakon, 1935~)です。彼は木材製品最大手のウェアーハウザー(Weyerhaeuser)でのプロジェクトを通じ、また仲間たちの助けを借りて、「持続可能な成長の方程式」を生み出します。
その式そのものは(財務論初心者には)難解でしたが、メッセージは明快でした。「事業に自信があるなら借金を増やせ!」です。それまでは自己資本比率を高めることだけが善だった(※4)経営者たちにとって、衝撃のメッセージでした。
躍進する日本企業たちは、単に市場シェアを不当廉売(ダンピング)によって奪っているのではありませんでした。低価格で経験量を増やしてコストを下げ、借入金は増やすが配当は抑えて、理にかなった「持続可能な高成長」を遂げていたのでした。
(※3)マッキンゼーが日本支社を設けたのは1971年。ADLは1978年、ベインは1981年。
(※4)もしくはそれまでの企業財務理論では借入比率は企業価値に中立のはずだった。1958年にモディリアーニとミラーの論文によって主張された。

そして1969年、BCG史上最大の商品が生まれます。「成長・シェアマトリクス」です。「プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)」とも、また「BCGマトリクス」とも呼ばれるこの2×2(ツーバイツー)のシンプルなマトリクスは、多数の事業管理に悩む経営者たちの、最大の武器となりました。
つくったのはやはり入社1年目の天才コンサルタント、リチャード・ロックリッジ(Richard Lockridge, 1943〜)でした。
クライアントであるユニオン・カーバイドの数十もの事業を、競合相手と一覧で比較できるようにすることが彼のミッションでした。上司であるビル・ベイン(Bill Bain, 1937〜2018 ※5)がクライアントとそう約束してしまったのですから、仕方がありません。
ロックリッジは分析の山に埋もれながら、それをどう整理して相手に伝えればいいか悩み続けましたが、ある日、クライアントCEOの予定変更で数時間待たされていたとき、天啓が訪れます。
彼はその場で「成長・シェアマトリクス」を書き上げ、CEOとの打ち合わせに臨みました。
このマトリクスは二重の意味で画期的でした。①絵としてわかりやすく、②各事業の位置づけを数値で分析できる、初めての「企業戦略(Corporate Strategy)ツール」だったのです。まさに、悩めるCEOのための、ツールです。
各事業はその「市場(予想)成長率」と「相対シェア(※6)」によって4象限のどこかに位置づけられます。各象限は金のなる木(Cash Cow)、スター(Star)、問題児(Problem Child)、負け犬(Dog)、などとネーミングされており、経営レベルから見たときの「基本事業方針」「基本投資方針」が明確に示されています。
たとえば、市場成長率が低く(成熟市場)、相対シェアが高い(リーダー)のであれば、金のなる木に分類され、そこでの基本事業方針は「低成長・高シェアの維持」であり、基本投資方針は「投資は最小限に留め、キャッシュの創出源とする」です。だからキャッシュ・カウ(Cash Cow)。
金のなる木事業を投資資金の創出源とし、金食い虫のスター事業につぎ込むとともに、次のスターを育てるべく、問題児事業は選別の上、重点的に資金投入をする。負け犬事業は低成長・低シェアなので速やかに売却・撤退すべし。
こういった企業全体での「お金(投資資金)の流れ」を明確にしたことで、アメリカの大企業経営者たちは、一気にこのマトリクスに飛びつきました。これで部下の事業部長たちと戦う武器ができた、と。

(※5)のちに独立しベイン・アンド・カンパニーを創業
(※6)最強の競合とのシェア比。自社がトップなら2位と、自社が2位以下なら1位とのシェアの比率。
そういった「定量的・分析的な経営ツール」の完成を待っていたかのように、世界を、そしてアメリカを不況の波が襲います。その最大のものが1973年のオイルショック(Oil Crisis)でした。
73年10月6日、エジプト・シリア連合軍がイスラエル軍を奇襲します。サウジアラビアやイラク、クウェートといったアラブ諸国も軍事的資金的な支援をして始まったのが第四次中東戦争でした。
直後の10月16日から、中東の産油国によって、イスラエル支持国(アメリカなど)への段階的な原油の値上げと供給停止措置が打ち出され、原油の輸入価格はたった4ヶ月で、1バレル3ドルから11.7ドルへ約4倍になりました。化学や自動車だけでなく、農林水産業や工業・家庭生活すべてが安価な石油資源の上に成り立っていた先進諸国は、等しく大打撃を受けました。
大企業が採用していた精緻な戦略プランニングは役に立たず、環境の急変にもついていけませんでした。とにかく、多角化で拡大しきっていた事業の整理が急務となりました。そして選択・集中した事業では、積極的なシェア拡大戦略がとられました。
70年代、BCGは「成長・シェアマトリクス」による事業ポートフォリオ再構築プロジェクトが大ヒットし、会社はその規模を飛躍的に拡大(※7)させました。
79年時点では大手企業(フォーチュン500)の半分近くが、BCGの「成長・シェアマトリクス」(もしくはその類似品)を、経営戦略プランニングで利用するまでになりました。
(※7)コンサルタント数は1969年の62名から1979年には277名と4.5倍になった。
更新:10月28日 00:05