2025年09月19日 公開
「スーパードライ」以降、挑戦の文化が少しほころびつつあったアサヒにあって、グループのトップとしてリスクコントロールの徹底に取り組み、「生ジョッキ缶」を大ヒットに導いた勝木敦志氏。「大事なことは部下や後輩に信頼されること」「部下の失敗は当然、自分の失敗」と語る同氏に、リーダーに求められる姿勢を聞いた。(取材・構成: 川端隆人 、撮影:丸矢ゆういち)
※本稿は、『THE21』2025年10月号より、内容を一部抜粋・再編集したものです。
――新卒でニッカウヰスキーに入社されたのは、どんなきっかけで?
【勝木】学生時代はずっと山登りをやっていまして、就職活動を始めたのは4年の10月2日から。実家は酒屋でしたし、前年にきれいな本社ビルができたばかりで憧れもあって、ニッカに入社しました。
大学まではまったく勉強をしていなかったのですが、入社して財務課に入ると、当然勉強しなければ仕事にならない。その代わり、今した勉強がすぐに仕事で役立つ。これが面白くて、急に勉強が好きになりました。人生が変わりましたね。数字を基にして合理的な説明をする習慣が身についたのも良かった。
その後、配属された営業の仕事も面白かった。業態を問わず、エリア内の問屋さんからデパート、酒販店、スーパーやコンビニ、バーやスナックとあらゆるお客様を担当しました。
結局、営業というのは意思決定の連続です。常にお客様と対話し、交渉しながら頭をフル回転させて成果を上げていかなければならない。当事者意識を持って、自分の言動にも責任を持って、結果にも責任を持つ。これはいいトレーニングになったと思います。必ずやらなければいけないというわけではないけれど、リーダーを目指す人にとって、営業経験は無駄にはならないでしょうね。
――優秀な営業マンだったわけですね。
【勝木】営業成績を評価していただいたこともあって、その後は本社に移りました。会社のビジョン策定を行なうプロジェクトチームで、わずか半年でしたが、このときの経験は勉強になりました。
チームには生産部門を仕切っていた人、ヒット商品を連発しているマーケターなど、あらゆる部門から優秀な人が集まっていました。
ここで、専門外だった仕事についても勉強ができましたし、折しもアジアのウイスキー市場は自由化に向かっている中、海外市場への輸出に関わることができたのも大きかった。それまではろくに語学もやっていなかった私でしたが、以来30年以上、海外での仕事に関わり続けることになりました。
当時のメンバーの中でも、ある先輩のことは忘れられません。本当に、あらゆる資質が全部揃っている人というのはいるんですよ。知識、経験、人脈、斬新な発想、実現への執念。「世の中にはこういうすごい人もいるんだな」とそのときに学びました。しかも、先輩は自分の知見を惜しみなく私に教えてくれましたから、いい経験になりました。
――その方から学んだことは、どんなことでしょう?
【勝木】飛び抜けて優秀なだけに、上司とうまくやろう、といったことはあまり気にしない人でしてね(笑)。でも、その姿を見ていてわかった。大事なことは上司や先輩に媚びへつらって自分を曲げることではなくて、むしろ部下や後輩に信頼されることだと。これが社会人としてのあるべき姿だと、以来ずっとこの考えは貫いているつもりです。
――どうすれば、部下や後輩に信頼されるんでしょう?
【勝木】難局にあっても逃げないことでしょう。逃げる人だと思われたら、誰もついてこないでしょうね。部下の失敗は当然、自分の失敗だと思わなければいけない。だから私は部下の失敗を責めたことはない、つもりです(笑)。
――その後、ニッカがアサヒビールに統合されるという大転機が訪れます。2001年、勝木さんが41歳のときですね。
【勝木】アサヒがビールだけに頼る事業から、ウイスキーや焼酎、ワインなどを扱う「総合酒類化」に乗り出したのと、ニッカの経営不振が重なったタイミングが2001年でした。
それまでもアサヒの子会社ではあったのですが、業務上はほぼおつきあいがなかった。それが100%子会社化で、私のいた営業部門はアサヒと統合、ということになったわけです。
アサヒに移る前夜には、同僚と飲みながら「俺たちは終わったな」「明日からは廊下の端っこを歩くんだ」なんて嘆いたものですよ。ところが、翌日出勤すると「ああ、ニッカさんいらっしゃい」という感じで歓迎してくれるんです。といって、特別に気を遣っている感じでもない。全然普通なんですよ。拍子抜けしました。
――勝木さんがよくお話しになっている、アサヒのインクルーシブな文化ですね。
【勝木】これには理由があって、アサヒは1987年のスーパードライ発売以来、急激に成長した。人員が圧倒的に不足して、あらゆる部門で中途入社されてきた方がたくさんいて、当時としては珍しいくらい、インクルージョンの文化があったんですね。あとで知ったことですが、統合にあたって作られた「ニッカ統合10か条」には「社員を出身で差別することは許さない」と明確に書いてあった。トップがそう宣言するだけでなく、この考え方が組織に浸透していたのでしょうね。
2018年、オセアニア新オフィス開設時
――最初に、ある程度の人数のチームを率いたのはいつのことですか?
【勝木】ラインの長になったのは2006年です。国際経営企画部長になって、部下は10人ほど。M&A、買収後の事業の管理などを中心に、海外事業の成長戦略を担当する部署でした。
経験もあり、モチベーションも高いメンバー揃いのチームでしたが、当時は大変でしたよ。最初の大規模海外進出先は中国で、競合に押される中、ターンアラウンドを図らなければならなかった。手を打っても打ってもうまくいかない、砂漠に水をまくような状況です。
そのあとは韓国でも業績不振の改善に取り組みましたが、うまくいかず降格にもなりました。
――「どうして俺だけがこんな大変な目に」なんて、思ってしまいそうな状況では?
【勝木】いやいや、そんな暇もなかった。M&Aチームのリーダーとして、多いときには8件くらいの案件を同時進行するほどでしたから。
その後、オーストラリアでは買収した事業を束ねる持株会社をつくることになったのですが、トップの人選で揉めているので「私が行きましょうか」と手を上げました。
確かに大変でしたが、やりやすいほうへ流れたら仕事が面白くない。伸びる人というのは、道がいくつかあったら、一番苦労する道を選ぶ人じゃないでしょうか。
――あえて大変な道を選ぶ、といえば、2021年発売の「生ジョッキ缶」はかなりの挑戦だったと思います。
【勝木】そうですね。当社の変化が現れた商品だと思います。
2010年代までは、「スーパードライの成功を脅かすようなリスクは取れない」という考え方がやや社内にあったと思います。アサヒらしい「挑戦」の文化が少しほころびつつあったと言えるかもしれません。
折しもグループ内では、全社的リスクマネジメントを導入して、リスクを可視化し定量的にコントロールしようという取り組みが進んでいました。経験者の勘に頼るのではなく、仕組みでリスクを管理していこうという体制づくりです。
生ジョッキ缶の「開けたときに吹き出るかも」「泡がうまく立たないかも」というリスクは大きい。けれども、そのリスクをいかにコントロールするか、という議論を社内で煮詰めて、発売にこぎつけたのはまさに「進化」だったと思っています。リスクをコントロールしようという文化が育った、その結果の成果です。
――挑戦というと、どうしても経営者の「胆力」勝負、みたいな考え方はいまだ根強いですね。
【勝木】昔の経営者は大変だったと思います。松下幸之助や本田宗一郎の時代は、あれくらいの本当のカリスマが決断しないと成長を実現できない時代だった。今はリスクの可視化のような合理的な取り組みを進めて、カリスマではなくサーバント型のリーダーが、多様な意見や情報を取り入れながらリスクテイクしていく。現代に求められるリーダーシップはそれだと思っています。
2011年にオーストラリアに赴任して、事業買収にあたって誤った情報を聞かされていたことが判明しました。お金を取り戻すための訴訟を進めつつ、業績不振となっていた事業の再建もしなければいけない立場に置かれました。
もちろん、一人でできる仕事ではない。幸いだったのは、数年前から事業の統合作業を進めていた現地のチームとは信頼関係ができていたこと。一緒に戦略を練って、訴訟と事業のターンアラウンドをやり遂げることができました。
「一人でできることには限界があるけれど、チームにプロを集めて取り組めば、どんな難しいことでもできる」と、そのときにわかった。リーダーだけでなく、チームのみんながそれぞれにサーバント型で、お互いに支援しあう。
すると、カリスマではない私たちでも、大きなことができるんだと気づいたわけです。複雑化して変化の激しい時代だからこそ、多様な人の知見、アイデアを取り入れて意思決定していくべきという意味でも、これは重要な考え方だと思います。
【勝木敦志(かつき・あつし)】
1984年、青山学院大学卒業後、ニッカウヰスキーに入社。2002年にアサヒビールに転籍。06年国際経営企画部長、14年豪州事業CEO、16年アサヒグループホールディングス執行役員を兼任。17年取締役兼執行役員、18年常務、20年専務兼CFO などを歴任し、21年3月より現職。
更新:09月23日 00:05