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「家電で楽をするのは贅沢」 松下幸之助が“需要の少ない農村部”に販路を広げた理由

2024年11月08日 公開
2024年11月11日 更新

川上恒雄(PHP理念経営研究センター首席研究員)

松下幸之助イラスト:松尾達

人生100年時代を生きるビジネスパーソンは、ロールモデルのない働き方や生き方を求められ、様々な悩みや不安を抱えている。本記事では、激動の時代を生き抜くヒントとして、松下幸之助の言葉から、その思考に迫る。グローバル企業パナソニックを一代で築き上げた敏腕経営者の生き方、考え方とは?

【松下幸之助(まつしたこうのすけ)】
1894年生まれ。9歳で商売の世界に入り、苦労を重ね、パナソニック(旧松下電器産業)グループを創業する。1946年、PHP研究所を創設。89年、94歳で没。

※本稿は、『THE21』2024年2月号に掲載された「松下幸之助の順境よし、逆境さらによし~与えられた環境に没入し、精進努力する。大きな安心感がわき、力強い働きが生まれる。」を一部編集したものです。

 

「需要がないなら自分でつくればよい」常識外れの挑戦が主力事業の一つに

1950年代半ばのことである。松下電器(現パナソニック)で新設の通信機課の課長を命じられた木野親之氏(のちの松下電送社長)は途方に暮れていた。担当の電気通信事業はほぼ官需に限られ、指定会社は、すでに電電公社(現NTT)をはじめ大手企業で占められている。新規参入の余地がない。

木野氏は、当時社長の松下幸之助に助言を求めることにした。すると幸之助は、「民需でいけ」と指示を出す。しかし、そもそも民需がないので、木野氏にとっては助言にもならない。しまいには、「ないなら自分でつくればよい」と言われる始末。

困っている木野氏に、幸之助はこう続けた。「日本は戦争に負けたけれど、かえってどんな仕事もできる社会になった。ゼロから新しい日本が立ち上がるんや。きみが松下の電気通信の歴史をつくってくれ」。

社長からここまで言われては覚悟を決めるしかない。とはいえ、無線事業には政府の免許が必要だ。何でもよいというわけではなく、電波法によると、公共性が求められている。「民間で役に立ちつつ公共性の高い無線の使い方とは何だ?」と木野氏は考え続けた。

その結果、タクシーに無線機を積んだら便利ではないかと思いつく。まだ自家用車がそれほど普及していない時代、国民のタクシーに対する需要は大きい。公共性の要件を満たすはずだ。タクシーにとっても、無線を活用することで配車の効率性が飛躍的に高まる。

実のところ、タクシーの無線機はすでにごく一部の地域で導入されていたのだが、コストや品質面で課題が大きく、市場が形成されるほど普及していなかった。木野氏は当時の郵政省に何度も足を運び、ようやくタクシー無線事業の許可が下りる。早速木野氏は全国のタクシー会社に営業にまわったところ、次々と無線機の導入が決まったという(以上、『松下幸之助に学ぶ 指導者の一念』[コスモ教育出版]を参考にした)。

1958年、松下電器の通信機事業部は、松下通信工業として独立会社化する。タクシー無線は同社の主力事業の一つに発展した。確固たる民間市場が形成されたのだ。木野氏は、「無線は官需」という"常識"にとらわれていたのである。

 

家電で楽をするのは贅沢? 価値観に立ち向かった松下電器

幸之助が民需の可能性を見通した背景には、自身の強い使命感がある。戦前から社員に向けて、「松下電器の使命は、日本から貧をなくし、国民生活を物心両面から豊かにすることだ」と繰り返し訴えていた。そしてその使命の実現のためには、人々の「無言の要望」、すなわち需要を察知して創出することが大切だと説いたのである。

その良い事例が、1950年代から60年代にかけての家電製品の普及に向けた努力だ。

家電製品は当初、比較的所得水準の高い都市部を中心に普及した。この点は、日本に限らず、他国でも見られる現象だろう。一方、農村への普及が進まなかったのは、日本特有の事情もあった。所得の低さや電力インフラの不備だけではなく、「価値観」が阻害要因となったのである。この「価値観」に立ち向かったのが松下電器だ。

当時の農村の女性は働き詰めの日々を送っていた。家電製品があれば、家事労働が大幅に軽減されるはず。しかし、それこそが問題だった。嫁が高価な家電製品によって楽をするのは贅沢だという見方が、姑などに根強かったという。

そういう事情であれば、販売戦略を都市部に重点化するのが合理的だろう。けれども、松下電器の使命は全国民の豊かな生活を実現することだ。都市部で稼げばよいことにはならない。そこで販売網を全国隅々まで広げたのはよく知られているが、それだけでなく積極的に農村への啓蒙活動を展開したのである。1957年に始めた、社員が車で全国をまわる「走る電化教室」だ。

ノンフィクション作家の柳田邦男氏は、かつてこの活動に従事した社員の証言を紹介している。

「田舎へ行くと、洗たく機でいもは洗えるかとか、メリケン粉をこねてトースターに入れるとパンになるのかといった質問が出る時代でしたからね。午後一時頃から教室を開いて、終わるのは夕方、それから撤去作業をして次の町の宿へというのですから、ドサまわりの旅芸人みたいだった」(『大いなる決断』講談社)。

社員たちは、自社商品を売り込む前に、これから家庭電化による生活革命が進むのだと訴えてまわった。その効果はじわじわと出てくる。販売戦略面では非効率であるようにみえて、「ナショナル」ブランドが全国に浸透する原動力となった。

 

使命感があれば視野はおのずと広がる

幸之助は、素朴な使命感だけで農村への普及を進めていたわけではない。「貧しいから売れない」という"常識"を疑い、いずれ購買意欲が高まると踏んでいたのだ。家庭電化が生活を豊かにすることさえ理解されれば、巨大市場になると見込んだのである。大きな視野を持った戦略家だった。

幸之助は「日本人は一体に視野がせまい。(中略)自分の知っている範囲だけで物ごとを判断しようとすることが間違いなのである」(『物の見方 考え方』PHP研究所)と指摘している。だから「視野の角度を、グングン広げなければならない。十度の視野は十五度に。十五度の人は二十度に」と説いた(『道をひらく』同前)。

私たちは眼前の小利にとらわれていないか。しかし、何のために事業活動に従事しているのかという使命感があれば、視野はおのずと広がるはずだ。いま一度、自分自身の仕事に対する姿勢を見直してみたい。

 

\松下幸之助生誕130年記念シンポジウムを開催!/
経営で大切なことはみな松下幸之助が教えてくれた

「経営は本来成功するようにできている」
小学校中退、病弱など不遇な生い立ちでありながら、経営者として数々の危機を乗り越え、透徹した見方・考え方で成功を収めた松下幸之助。

幸之助が94年の人生を通じて人々に訴えた大切なことは何かを、サイボウズ株式会社社長の青野慶久さん、早稲田大学ビジネススクール教授の入山章栄さんとともに議論します。

最新技術による幸之助研究も紹介、混迷する現代に求められるアントレプレナーシップ、リーダーシップについても考察。次代を担う経営者、リーダーのみなさまのご参加をお待ちしております。

日時:2024年11月27日(水) 18:30~20:45  ※開場は18:00を予定
会場:紀伊國屋ホール

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