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松下幸之助から毎日電話が...「経理から工場長に」異例の人事がもたらした活躍の道

2024年03月11日 公開
2024年03月11日 更新

川上恒雄(PHP理念経営研究センター首席研究員)

松下幸之助 川上恒雄
イラスト:松尾達

人生100年時代を生きるビジネスパーソンは、ロールモデルのない働き方や生き方を求められ、様々な悩みや不安を抱えている。

本記事では、激動の時代を生き抜くヒントとして、松下幸之助の言葉から、その思考に迫る。グローバル企業パナソニックを一代で築き上げた敏腕経営者の生き方、考え方とは?

【松下幸之助(まつしたこうのすけ)】
1894年生まれ。9歳で商売の世界に入り、苦労を重ね、パナソニック(旧松下電器産業)グループを創業する。1946年、PHP研究所を創設。89年、94歳で没。

※本稿は、『THE21』2023年2月号に掲載された「松下幸之助の順境よし、逆境さらによし~与えられた環境に没入し、精進努力する。大きな安心感がわき、力強い働きが生まれる。」を一部編集したものです。

 

会社主導型のキャリア形成だからこそ

最近は、社員の希望を配慮することなく配属や異動を命じる企業は少なくなった。むしろ、社員のキャリア形成支援に力を入れる企業が増えているという。

しかし、会社主導型のキャリア形成も一概に悪いとはいえない。配属や異動によって、経験したことのない仕事ができたり、まったくの異分野で新たな人脈ができたりするからだ。

松下幸之助も、社員はまずは与えられた仕事に注力すべきだと説いた。それは社員を使う経営者の立場にいるからではなく、自身についてもずっとそうだったからだと言うのだ。

若くして独立したのは、積極的にそうしようと考えたのではなく、そのときの個人的事情や時代背景によるものであり、以降も置かれた境遇のもとで懸命に努力をしてきたにすぎないと述べている。

また、そのような自身の経験から、自分の意志で道をひらこうとすると、煩悶や動揺に苦しむことが多いものの、「素直に与えられた環境に没入し、精進努力してゆく。そういうところに大きな安心感もわき、より力強い働きも生まれてくる」(『思うまま』PHP研究所)と強調している。

 

「10年後も同じ考えなら、ワシの頭を殴ればいい」

とはいえ、道がひらけるかどうかは事後的にわかるものであり、会社から配属や異動を命じられたときはショックを受ける人が多い。戦前の松下電器(現・パナソニックグループ)では、こんなことがあった。のちに同社生産技術研究所の所長を務めた有近重信氏の例である。

有近氏は1936年の入社。当時の松下電器は持ち株会社で、その下に事業別の分社が存在した。有近氏の配属先は、分社の一つである松下乾電池。志望先の松下無線ではなかった。

新入社員が志望とは異なる部門に配属されるのは珍しいことではない。ただし、有近氏の場合は事情が違った。高専の頃アマチュア無線に夢中だった有近氏は、すでに別の無線会社に応募していたが、松下無線から高専側に1名採用したいとの要望があり、担任教師の勧めで親会社の松下電器に就職したのだ。つまり、入ってくれと頼まれたのだから、当然、松下無線で働くものだと思っていた。

おまけに命じられた業務が、「現場を知らなければ仕事は身につかない」との理由から、工場での化学物質の調合作業。無線の仕事とはまるで異なり、いつも真っ黒になりながらの重労働である。そこで幸之助に「こんなひどい会社はない。辞めようと思っている」と訴えた。

事情を知らない幸之助は、さすがに同情したのか、「考えと違って、えらいところへ来たな」と答えたという。

しかし、すぐにこう続けた。「だまされたと思って10年辛抱してみなさい。10年後も同じ考えであれば、ワシの頭をポカッと殴って、"松下幸之助、オマエはオレの青春の10年を棒に振ってしまった"と言って辞めたらいい。ワシには、殴られない自信がある」。

有近氏は20年後に乾電池工場の工場長になった。当初はイヤで仕方なかった仕事も、結局は向いていたのである。それに戦後は、無線よりも乾電池の事業のほうが隆盛を誇った。

幸之助の「殴られない自信」は、時代の先を読む力があったからだろう。実は会社側は、有近氏の将来を考えて、意図的に乾電池に配属したのかもしれない。

 

畑違いの部門で磨いた「経営感覚」

意外なポジションに配属されるのは新入社員ばかりではない。1937年に入社した鈴木一氏は一貫して経理畑を歩んできた。本社勤務は最初の1年だけで、トップの幸之助と言葉を交わす機会などほとんどなかった。

ところが1961年、灯器の工場長に任命される。「えらいことになったな」と思ったのは本人ばかりでなく、他部署の先輩からも、「君が工場長か。灯器には人材がおらんのやな」と言われる始末。幸之助から辞令を受け取る際も、「きっと頼りない奴だと思われているに違いない」と考え込んでしまう。

しかしそんな不安も束の間。幸之助から毎日電話がくるようになり、悩んでいるどころではなくなった。「きょう従業員は全部で何人、来とるんや?」「困った者はおらへんか?」「きょうはなんぼ売れたんや?」──。電話は朝昼晩とあり、気が抜けない。夜中に自宅にかかってくることも珍しくなかった。

一般的に考えれば、何万もの社員を要する大企業のトップが、一工場長を手取り足取り指導することはないだろう。しかし幸之助は違った。鈴木氏に工場長を任すことができるまで、みっちり教育したのである。

毎日の電話は2週間ほど続いた。やがてそれは3日に1度、1週間に1度、2週間に1度となり、いつの間にか電話がかかってこなくなったという。ちなみに鈴木氏は後年、松下電器の経理担当役員に抜擢され、活躍した。工場長の経験が、経営感覚を養ううえで活きたはずだ。

工場長クラスの人事ともなれば、会社も無責任に行なうはずはないが、自ら指導に乗り出すところが幸之助らしい。任命権者としての責任を果たさねばならないと思ったのだろうか。

近年は「自律的なキャリア形成」が盛んに推進されているが、とかく人間は将来の望ましい自分の姿を狭くとらえてしまうものだ。長期的には、技術革新や産業構造の変化によって、求められる能力やスキルは変わってくる。

今の時代、会社主導による受け身のキャリア形成がよいとは言えないが、配属や異動を自らの能力を広げる機会だととらえ、新たな職務に邁進することも大切だと思われる。

 

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