戦国大名と言えば、国盗り合戦をして全国制覇を狙うもの。そんなイメージは、テレビドラマのみならず、シミュレーションゲームでも広められている。しかし、茶道具や茶席を使った「非言語的なメッセージ」を操る文化力も全国統一には不可欠だったと、大日本茶道学会会長の田中仙堂氏は指摘する。
明智光秀は、天正6年(1578)の正月から、信長から拝領した茶道を披露する茶会を開いています。特に天正10年(1582)の正月には、信長自筆の書が光秀の茶席の床を飾っていました。その光秀が、同年6月に本能寺で信長を討つとは、だれが予想したでしょう。
明智光秀を山崎の合戦で討った秀吉が、信長の後を狙い、清須会議で信長の次男信雄、三男信孝を退け、信忠の幼少の嫡男を織田家の後継として擁立したという話は有名です。
天正11年(1583)の閏正月、秀吉は山崎で茶会を開きます。参加者は、信長にしたがっていた堺衆たち。釜は、信長から拝領していた乙御前の釜。床には松島の茶壺が飾られていました。
松島の茶壺は、安土城の竣工とともに信長のものとなり、天正5年(1577)暮れになって信忠へと譲られました。本能寺の変とその後の戦乱を経て、信長が嫡男へ譲った茶壺が堺衆の前に姿を現したことになります。
「以前から信長から評価され、そして、嫡男に譲られた茶道具を手にしている自分が、信長の跡を継ぐのは当然だろ」と堺衆たちに同意を求めているかのようです。
秀吉は、天正11年(1583)4月に柴田勝家を破ります。柴田勝家と結んでいた三男の信孝は、次男の信雄によって死に追いやられます。
秀吉が、織田家後継の地位を勝ち取ったのは、軍事力だけでなく、先代の信長が大切にしているものを自分も大切にして、それを自らのものにしていることをアピールすることが必要でした。
会社でも、後継者にふさわしい人物は、単に営業成績が優れているだけではなく、社是や創業理念といったものを受け継ぎ、自分のものにしていることが大切なのではないでしょうか。
柴田勝家を破った秀吉のもとに、徳川家康から「初花の茶入」が贈られます。
初花の茶入は、信長が永禄12年(1569)に、大文字屋から強制的に買い上げた名物茶道具です。天下の名物としてすでに著名なものでしたが、その後、信忠に与えられることによって、織田家での象徴的な価値はさらに増しています。
松島の茶壺と同じく、本能寺の変で行方不明になっていたものが、徳川家康の手に落ちていました。
その茶入が、家康から秀吉に献上されたのです。信長の同盟者家康から、信長継承のシンボルが贈られたものと、秀吉は受け止めたのでしょう。その後、初花の茶入を使った茶会が度々開かれています。
記録には書かれなくても、秀吉は初花の茶入を誰からいつどのタイミングで貰ったかを吹聴したことと思います。
柴田勝家と同盟して秀吉と対立していた滝川一益からは、「朝山の絵」が献上されます。この絵を秀吉は、家康の家臣をむかえた時に飾っています。秀吉は、「滝川一益も今や我が軍門に下った」と吹聴しているわけです。
滝川一益をむかえた茶会では、初花の茶入が飾られています。
秀吉の茶席は、献上された茶道具を飾ることで、自分の側に誰がついているかをアピールする場になっていました。
企業のホームページでは、SDGsとどのように関わっているかを競うように紹介しています。また、経営について問われたら、「パーパス経営」など、最新の経営モデルに依拠していることをアピールする経営者もいます。「世の中の流れは、自分の側にある」というアピールは、いつの時代にも欠かせないものようです。
更新:11月22日 00:05