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「野球が嫌で大工になろうとした」石毛宏典氏に待っていた“広岡監督と幸せな野球人生”

2021年08月12日 公開

石毛宏典(元プロ野球選手)

石毛宏典

西武ライオンズの黄金期を支えた一人・石毛宏典氏は、プロ1年目に新人王を獲得したにもかかわらず、2年目に「野球を学び直した」と言う。石毛氏の野球人生を変えた広岡達朗監督との出会いについて話を聞いた。(取材・構成:林加愛)

※本稿は、『THE21』2021年8月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

学生時代は野球に興味が持てなかった

実を言うと、僕は野球というスポーツに興味がありませんでした。

級友たちがこぞって「ON(長嶋茂雄・王貞治両選手)」に夢中になる中、僕は野球中継さえあまり見たことがない子供時代を過ごしました。というのも、僕の実家は農家で、下校後は毎日手伝いをしていたのです。

当時の農作業はすべて手作業、かなりの重労働でした。学校にも農繁期休みがあるほどで、とにかく農作業がいやでした。

そこで中学に入ったとき、農作業から逃れるべく、最も帰りが遅くなる部活を選びました。これが僕のスポーツとしての野球のスタートです。

ところが、野球部は厳しいタテ社会。監督と先輩には絶対服従で、毎日殴られたり、正座させられたり。こういった環境がいやになり、野球は中学で止めて、卒業後は大工になろうと考えました。

農家の長男は大事にされますが、次男は家を出されますから、手に職をつけようとしたのです。

しかし、野球部の監督でもあった担任の先生が、何としても野球を続けろと言うのです。嫌がる僕をよそに、家まで来て「ぜひ高校で野球を続けさせてください」と親を説得。親にとって先生は絶対的存在ですから、僕の意志など入る隙間もなく、高校進学が決定しました。

市立銚子高校に入学し、3年生の夏の大会では県大会決勝に進出。甲子園にはあと一歩届きませんでしたが、特に残念だとも思いませんでした。

 

西武に入団…自分の意志と関係なく進んでいく人生

高校卒業後は、「今度こそ就職を」と思っていたところに、駒澤大学から熱心な誘いを受けて進学。ならば、大学で勉強して、卒業後は教師に……と思いましたが、野球漬けで教職課程を取れず、これまた断念。

裏腹に、野球の実績は着実に積み上がりました。東都大学野球リーグでは、在学中に5回優勝、ベストナインに6回選出。

社会人野球時代は、世界選手権大会で原辰徳さんと三遊間を守り、そのプレーが新聞紙面を賑わせました。故郷ではちょっとした騒ぎになり、家族は「もうプロ入りしかない」という雰囲気。父に長年学費を出してもらった負い目もあり、1980年のドラフト1位指名を受けて、西武ライオンズに入団しました。

ことごとく希望とは別の進路が用意される人生。僕は、与えられた場所で、求められたことを、ただこなすだけでした。

思わぬ転機が訪れたのは82年のこと。新人王を獲得した直後の、25歳の春――広岡達朗新監督との出会いでした。

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