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京都には、なぜ世界で活躍する「ものづくり」企業が多いのか?

2020年12月28日 公開
2022年10月25日 更新

鵜飼秀徳(ジャーナリスト/浄土宗正覚寺副住職)

鵜飼秀徳
鵜飼秀徳氏

時流を読むのに優れた京都人

 京都人は時流を読むことにも優れていると、鵜飼氏は言う。

「『京都人は腹黒い』とよく言われますが、時流を読みながら、それを態度に出さないということです。

 京都には、戦国時代なら織田信長、豊臣秀吉、徳川家康というように、時の権力者が入れ代わり立ち代わりやって来ました。ですから、京都人は、権力者はどんどん変わるものだということをよく知っています。もし誰かを支持したら、権力者が変わったときに、自分の身が危うくなる。だから、頭の中では敏感に時流を読みつつも、旗幟を鮮明にしない。生き残るための知恵ですね。

 京都の企業も、時流を読んで自らを変革しながら、しかも、一時の流行に流されすぎないバランス感覚を持つことで、成長してきました」(鵜飼氏)

 先ほど名前が出た初代島津源蔵は、時流を読んでビジネスを大きくした典型例だ。

「初代源蔵は、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、仏具には将来がないと見て、舎密局でオランダ人から技術を習得し、理化学機器の製造に事業転換しました。

 初代京都府知事・長谷川信篤や大参事・槇村正直(第2代京都府知事)は、京都の再生のためには人材育成が不可欠だと考え、小学校の整備を急ぎました。1869年(明治2年)に日本初の小学校である上京第二十七番組小学校(柳池〈りゅうち〉小学校)を開校し、以降、1872年(明治5年)の明治政府による学制発布までに64校を開校しています。これに伴って、小学校で教育に使うための理化学機器の需要が高まりました。初代源蔵は、ここに目をつけたのです。仏具で培った鋳物のノウハウを活かせる事業でもありました。

 彼は、1877年(明治10年)に民間では日本初の軽気球飛揚を成功させて、京都の科学技術力を広くアピールしたりもしています」(鵜飼氏)

 初代源蔵の子の2代目島津源蔵も、時代の最先端を行く人物だった。1930年(昭和5年)には、「十大発明家」に選ばれ、宮中の昼食会に招かれて顕彰されたほどだ。

「1895年(明治28年)にドイツのレントゲン博士がX線を発見すると、2代目源蔵は、さっそく翌年に日本初のX線撮影を行なっています。

 日本初の蓄電池を発明したのも2代目源蔵です。1905年(明治38年)に戦われた日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊に勝利した東郷平八郎率いる連合艦隊は、駆逐艦以上の軍艦の無電に2代目源蔵が開発した蓄電池を使っていました。

 2代目源蔵は、現在のGSユアサや大日本塗料、三菱ロジスネクストにつながる会社の設立もしており、その意味でも、京都のものづくりに大きな影響を与えています。

 京都の再生に島津製作所が尽力したことは京都の町衆の間で語り継がれていて、京都人は島津製作所を『島津さん』と呼んでいます。さん付けで呼ばれる企業は、『島津さん』と『大丸さん』(大丸京都店)だけです。

 誰もやっていないことをやる社風は、現在の島津製作所にも受け継がれているように思います。2002年に島津製作所の社員である田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞したことや、今回のコロナ禍に当たって島津製作所がPCR検査キットを素早く世に出したことにも、その社風が反映されているのではないでしょうか」(鵜飼氏)

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