2019年09月02日 公開
2023年02月24日 更新
社外からの招聘も含め、企業のために経営幹部などの人材に関する課題を解決する「人財コンサルティング」を世界的に行なう米国企業コーン・フェリー・インターナショナルで日本支社長を務めるなど、ビジネスの世界で活躍してきたフクシマ氏。しかし、そのキャリアは、初めから想定していたものではなかったという。
2002年から、花王をはじめ、ソニーやブリヂストン、味の素など、10社の日本企業で社外取締役を務めさせていただきましたが、お声がけいただいた理由の一つは、米国の上場企業であるコーン・フェリーでボードメンバー(取締役)を経験していることでした。
コンサルティング会社から同社に転職したのは40歳のとき。1995年に米国本社の取締役に選挙で選ばれ、99年の上場後は、社内取締役は任期満了とともに退任する予定でしたが、外部から来たばかりのCEOに「君は自分の大事な会社を白人男性のみのボードメンバーに任せていいのか」と言われて、留まるように説得されました。
ボードメンバーのうち、社内の人間はCEOと私の二人だけになり、他は欧米の大企業のトップなど、社外の錚々たる経営者の方たちでした。彼らに過去の決定を「なぜだ」と聞かれて、社内では当然とされていたことを改めて振り返り、わかってもらえるように説明することは、「社内の常識、外の非常識」を認識し、自社の再評価をする機会となりました。
また、他業界にいる社外取締役の多様な発言によって、株主の重要性も含め、社外の視点を意識するようになりました。日本にはいまだに社外取締役不要論がありますが、私には理解できません。
しかし、私は初めからボードメンバーを目指していたわけではありません。もともと自信がなくて、だからこそ失敗しないように頑張った結果、アジア1の成果を上げるようになり、認めていただけたのだと思います。
自信がないのは幼い頃からです。兄が優秀で、小学生のときに先生から「お兄さんほどできないね」と言われたのをきっかけに、自分はダメで、それでいいんだと思っていました。だから、努力もしませんでした。
頑張るようになったのは、私よりも私のことを信じてくれる人と出会ったからです。それは、第一に夫であるグレン・S・フクシマであり、第二にコーン・フェリーの創業者であるリチャード・フェリーです。
ハーバードの大学院生となった夫を米国で経済的に支えるために、私が最初に選んだ職業はハーバード大学の日本語講師でした。一生教師でいる予定が、コンサルティング会社に誘われ、ビジネスのことはまったく知らなかったのですが、夫が「咲江ならできるよ」と言ってくれたので、人生が大きく変わりました。リチャードは、コーン・フェリー入社時から、私のメンターになってくれました。
この他にも、夫と出会った日米学生会議への参加を勧めてくれたのは父ですし、「人財コンサルティング」の仕事が向いているというアドバイスをくれたのは、夫のスタンフォード大学の同級生でした。
振り返ってみると、人生の転機となるような選択はほとんど、自らしたというよりは、人から勧められてしてきました。そして、勧めてくれた人の期待に応えようと必死に働いてきた結果が、今につながっているのだと思います。
《『THE21』2019年8月号より》
更新:11月25日 00:05