2019年07月07日 公開
2022年10月25日 更新
アニメや漫画、ゲームなどのコンテンツ産業は、今や日本を代表する産業の一つになっている。そうしたコンテンツを使ったアパレルやグッズを扱う企業も多いが、その先駆けとなったのが、松永芳幸氏が1995年に創業した〔株〕コスパだ。現在は、イベント制作やインターネットラジオ事業を行なうタブリエ・コミュニケーションズ〔株〕、商品の小売りを担当するタブリエ・マーケティング〔株〕(両社とも松永氏が代表取締役を務める)などとともに、コスパ・タブリエ・グループを構成している。松永氏に、コスパ創業から現在に至るまでの道のり、そして今後について聞いた。
――コスパ・タブリエ・グループ全体では様々な事業をしていますが、中心となっているものはなんでしょうか?
松永 キャラクター・アパレルやグッズ、雑貨、コスチュームが売上げの中心ですが、インターネットラジオやイベントなどの売上げも小さいわけではなく、伸長しています。
――特に人気があるのは、どういうキャラクターの商品ですか?
松永 ガンダムやドラゴンボール、ONE PIECE、エヴァンゲリオンなど、当社でも長く展開させていただいているコンテンツは、ずっと変わらず人気が衰えないですね。
――購入する客層は、どの辺りでしょうか?
松永 年々、年齢層が広がっている感じがしていまして、30~40代のお客様まで増えています。
――例えばアパレルだと、どういう目的で購入するのでしょう?
松永 お客様それぞれによって違いますが、ファッションとして着るのはもとより、コンテンツやキャラクターに想いを馳せたり、同じコンテンツやキャラクターが好きな仲間とのコミュニケーションツールにしたりしている方が多いと思います。例えば、ライブやイベントに着て行くなどですね。
あからさまにキャラクターを描いているわけではなく、アイコン的なものをデザインしているものだと、そのコンテンツが好きな人にしかわからない。「それ、(ガンダムに登場する)ジオンのエンブレムですね!」というところから、コミュニケーションが始まるわけです。
――戦国時代が好きな人が武将の家紋の入ったグッズを持っているようなものですね。
松永 服で自分の趣味を曝け出してもいい時代になったのではないでしょうか。時代が変わりましたね。
もともと、スキマ産業と言いますか、マニアだけに喜んでもらえばいいと思って始めて、陽の目を見るビジネスではないんじゃないかと思っていたのですが、これだけ表舞台に出るようになり、世界にまで広がるとは。もちろん、そうなればいいな、とは思っていましたが。
――創業当時は、こうした商品のマーケットは小さかった?
松永 まず、キャラクターグッズの売り場というものが世の中にありませんでした。唯一、ゲーム系のグッズだけが、多少あっただけです。
セガサターンが1994年11月、プレイステーションが同年12月の発売なので、私がこの仕事を始めた頃にはまだなくて、アーケードの格闘ゲームが全盛期でした。そのグッズが出てき始めていた時期で、『ゲーメスト』(新声社)というアーケードゲームを中心とした専門誌もありました。
――マーケットがない状況で、なぜ、キャラクター・アパレルのビジネスを始めたのですか?
松永 私はもともとファッション業界にいたのですが、フリーランスで仕事を受けていたときに、MLB(メジャーリーグベースボール)のライセンスをワーナー・ブラザーズの極東の支部が持っているということを、友人を通じて知りました。それで、「MLBの商品化権を手に入れて日本でビジネスができたら面白いだろうな」と思って、連絡したんです。すると、個人へのライセンスアウトは難しいということでした。そこで住友商事〔株〕にいる先輩に相談したところ、「うちでやりたい」ということだったので、紹介して、私は住友商事のお手伝いをすることにしました。このビジネスは、特に1995年のシーズンから野茂英雄選手がMLBに行くと、大きく伸びましたね。
米国のライセンスビジネスの手法を目の当たりにして、それまでファッションの世界しか知りませんでしたから、「ライセンスビジネスというのは面白いんだな」と思いました。これをきっかけに、他社のお手伝いという形ではなく、自分でも何かライセンスビジネスをやりたいと考えるようになりました。
――もともと仕事にしていたアパレルと、何かのコンテンツを組み合わせようと?
松永 そうですね。
そんなときに、友人に誘われて、当時は晴海で開催されていたコミックマーケットに行ったんです。そこで、熱量の高い人たちが集まっている中に、アニメやゲームなどのキャラクターのコスプレをして楽しそうに遊んでいる人たちを見ました。その様子が、3Dのゲームの中でキャラクターが動いている様子と重なって、「こんなマーケットがあるのか!」と、頭の中でスパークが起きました。
当時はコスチュームを作って販売している企業はありませんでしたから、そこで見たのは自作のもので、サテン地を安全ピンで留めたようなものでした。私はずっとアパレルの仕事をしてきていましたから、「コスチュームなら作ってあげられる」と思いました。
また、それ以前から、海外のお洒落なデザイナーやDJ、ヘアメイクアーティストたちに、「日本のアニメやゲームはすごい。なんで観ていないんだ」と言われることが、たびたびありました。海外のファッションブランドのお手伝いをする機会が多くて、彼らに原宿などを案内したりしていたんです。
ファッションで世界と戦うためには、森英恵さんの蝶のモチーフや、山本耀司さんの黒を基調とした独特の革命的デザイン、山本寛斎さんやKENZOさんの和のモチーフのように、日本人ならではのものがないとダメだろうな、ということも、ずっと、なんとなく思っていました。
こうした色々なことが重なって、アニメは中学生くらいまではよく観ていたし、漫画は大人になってからも『ジャンプ』『マガジン』『サンデー』をずっと読んでいましたから、アニメや漫画をモチーフにしたアパレルを考え始めました。
――起業したいという想いはもともと持っていた?
松永 私は4人兄弟ですが、全員、それぞれ自分で事業をしていますし、親族にもそういう人が多かったので、自然とそういう気持ちはあったように思います。
――キャラクター・アパレルの事業を始めるに当たって最初にしたのは、コンテンツホルダーとの交渉ですか?
松永 いえ。その前に、コスプレのイベントを開催しました。パーティドレスがあるのは、パーティがあるからですよね。ファッションはTPOに合わせるものなので、まずは、コスプレを正装にして楽しむ場が必要だったんです。そういう場を増やせば、コスプレをする人が増えると考えました。
――イベントに集まってくる人たちのコスチュームも、自作だったわけですよね。
松永 熱意はすごかったのですが、テクニック的には未熟な状況が見受けられましたから、作り方を教えたりもしました。
――具体的には、どういうイベントだったのですか?
松永 1994年10月1日が第1回で、その後2回くらいは3カ月に1回のペース、それからは毎月開催していました。「コスチュームプレイダンスパーティ」という名前で、現社名「コスパ」の由来にもなっています。
会場は、第1回は芝浦のゴールドで、ベルファーレやツインスターなどでも開催しました。バブル崩壊後で、大きなディスコが借りやすかったんです。それでも手狭になるくらいの人が集まりましたね。
後楽園遊園地などの遊園地や公園、ゲームショウなどのイベントの会場でもコスプレができるように、話を持ちかけていきました。それで、更衣室を設置するなど、インフラを整えてくれるようになりました。
1995年1月に阪神淡路大震災が起こったあとは、関西でも開催してほしいというお手紙をいただいて、支援の意味も含めて、大阪でも開催しました。当時はインターネットがなかったから、お手紙だったんです。
その他の地方や海外からもコスプレイベントをしたいとお声がけをいただき、各地で開催しました。ほとんど手弁当でした。
コスプレを楽しむ場が増えることが目的なので、自分たちで主催することにはこだわらず、主催したい人たちにノウハウを提供するなどしていました。現地に行く費用がないときは電話やFAXでサポートしていたのを、よく覚えています。
更新:11月25日 00:05